ケータイ辞書JLogosロゴ 弓削島荘(古代)


愛媛県>弓削町

 平安期に見える荘園名。越智【おち】郡のうち。弓削島荘の初見は,保延元年6月3日の伊予守藤原忠隆請文(東寺百合文書/日本塩業大系古代中世1)で,この文書の端書には「鳥羽院 院宣請文」と記されていることから,当初の本家は鳥羽院と推定され,その後に後白河院に譲られたようである。さらに治承3年8月22日の官宣旨(東寺百合文書/日本塩業大系古代中世1)によると,弓削島荘は「養母源氏相伝,領掌所歴年序也,而去承安元年比,相副公験等所譲渡綱子也」とある。すなわち建礼門院の乳母源氏尼真性から藤原綱子に領家職が譲渡されたのである。同年9月13日の伊予国留守所下文(同前)では,弓削島住人らに対して「塩浜并田畠所当官物,任先例,可免除之,兼不可入国使」と伝えられており,弓削島の塩浜・田畠の所当官物が免除され,国使不入の地となっている。この時点で荘園としての一歩を踏み出した。久安6年9月16日付の国衙留守所に伊勢神宮役夫工米の過重な課役徴収などを訴えた弓削島荘百姓等解状(同前)に初めて「弓削御荘」と見え,当荘の反国衙農民の抵抗がうかがえる。長寛2年から仁安2年にわたった国衙課役免除をめぐる闘争において,「凡両度之費不可勝計也,逃散之基,何以如之哉」(同前)とあり,下司を中心とする当荘住人らの逃散が実施されようとしている。弓削島荘の状況については,長寛2年8月の弓削島荘下司平助道解(同前)によると,「当御庄者最亡狭少之地也,云作田塩浜只二町余,云田堵住人僅十余人」と見え,さらに本文書紙背には,「為国使被押取御年貢塩佰弐拾籠」とある。弓削島荘は耕地が少なく,自然条件を生かして年貢が塩で徴収されていた。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7433858
最終更新日:2009-03-01




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