ケータイ辞書JLogosロゴ 弓削島荘(中世)


愛媛県>弓削町

 鎌倉期から見える荘園名。建久2年10月の長講堂領注文(島田文書/日本塩業大系古代中世1)の「不所課荘々」の1つに「伊予弓削荘」が含まれる。次いで建仁3年4月7日の弓削島荘沙汰人百姓等解(東寺百合文書/日本塩業大系古代中世1)には,「宣陽門院御領弓削島御荘」と見える。本家である後白河院の手で長講堂領の1つとなった当荘は,その後,院の皇女宣陽門院に譲与された。さらに延応元年12月宣陽門院庁寄進状(同前)により,弓削島荘は東寺に寄進された。さらに本文書によると,承安元年源氏尼真性から藤原綱子に譲与されていた領家職は,正治元年7月に再び真性から綱子への譲与の手続きが取られており,当時も綱子は弓削島荘との関係を持っていたと思われるが,その後のことは不明。あるいは東寺寄進時点で本家・領家職ともに東寺が所有したのかもしれない。文治4年9月29日の検田目録(同前)に田3町3反半のうち定田1町4反,所当乃米4石8斗余とある。翌年4月の桑検注目録(同前)では桑373本,その代塩として373籠が課せられている。同年5月の作畠麦検注取帳目録(同前)では見作畠26町3反半,うち定得畠21町2反余,その所当麦31石3斗余であった。これら作畠は公田方と称される22の名【みよう】と名田方と称される末久名に分けられる。両者ともに島内に散在しているが(同前),公田方は各2反余から2町の面積を持ち,数筆に分かれるが,ほぼ同一地域に分布し,耕作は名主自身によったものが大多数である。名田方の末久名は13町4反の畠地を110筆余に分割され,島内全域に分布し,50名以上の作人によって,数反ずつ請作されている。これら耕地の僅少さを補っていたのが製塩であり,桑が代塩で徴収されていることなどから知られる。これが当荘を塩の荘園と称される理由である。年貢は延応元年12月13日の弓削島荘所当注文(同前)によると公物分として塩250俵,白干鯛100こん,甘塩の鯛100こんなど,預所得分が塩50俵,小古の塩730籠,白干の鯛100こん,甘塩の鯛100こんなど,別に田3町3反半よりの米,網2帖分よりの貢納があった。鯛の漁場は嶋尻・釣浜・辺屋路小島(現在の百貫島か)の3か所で,網を使用。塩は,海浜の塩浜で生産され,塩穴は北部の鯨・島尻・三水・釣浜などに多く,その他島内約20か所に所在した。建長7年9月所当注文では大俵457俵余,正和2年12月では大俵813俵・中俵270俵,暦応3年には弓削島の3分の1にあたる鯨方から東寺への納入量は大俵で700俵と急増している。当荘の年貢物の京上は,瀬戸内海の水運を利用して運送され,建治元年10月3日の領家方年貢塩等送文(教王護国寺文書/日本塩業大系古代中世1)では,「大俵塩弐佰伍拾参俵内 除 車力弐拾参俵…… 右,付梶取恒光」とある。「車力」とは畿内の荷揚地である淀あたりから京までの陸上運賃である。そして瀬戸内海を運送したのが梶取恒光である。彼は公田方と称される22の名田名の1つを名乗っている伝統的名主層の1人である。このように弓削島の荘の年貢塩などは有力名主の責任によって海上輸送された。こうした弓削島の生産力をめぐって,地頭・領家(雑掌)との間に次第に紛争が多くなり,延応元年12月の注文でも網1帖を地頭が押領した旨を東寺へ報告し,正嘉3年2月22日には雑掌僧明鑒と地頭日奉茂忠・同左兵衛尉景行との間に「一両様兼帯事者 付新補率法,可致其沙汰也 一比季野浜事,可為進止領家也 一宗貞名事,不可致其妨,両方相計天,可被付穏便之百姓也」など7か条からなる和与状が交された。しかしその後も紛争はやまず,雑掌加治木頼平はたびたび非法を訴え,正応元年には訴訟のため関東まで出かけている。永仁4年5月18日,北条宣時,同貞時よりの下知状案(東寺文書白河本64/日本塩業大系古代中世1)では,17か条にわたる相論のほとんどが地頭方の勝訴に終わったばかりか,かえって幕府は雑掌の非法を指摘する有様であった。領家方は最後の解決法として乾元2年正月18日,領家と地頭の間で和与を行った。その際に交された和与状によると,「一当嶋田畠・山林・塩浜等下地所務以下」を三分し,3分の2は領家方,3分の1は地頭方とし,「一網場参箇所内壱所嶋尻者,壱円可為預所分,壱所釣浜浦者,壱円可為地頭分」とし,さらに和与状作製と同時に領家分,地頭分を明示した弓削島差図(東寺百合文書/日本塩業大系古代中世1)がつくられている。正和2年,同3年,元亨4年などの百姓らが預所弁房(承誉)の非法を訴えた申状によると,年貢を倍増,および二重の賦課をする,また百姓を使役し,ウシや家財道具を盗むことなどをあげている。正和3年の所状(同前)には百姓24名の署名があり,その署名には名田名を名乗る9名の者が加わるなど島内百姓の階層を超えた農民結合による闘争が展開した。康永以降は安芸の小早川氏,管領細川氏,やがて能島村上氏らの武士の侵入押領などが目立つようになる。年月日の明らかな最後の文書は,寛正4年6月の東寺雑掌申状(同前)。本文書によると「去建武年中,小早河小泉五郎左衛門尉氏平致濫妨,令追出寺家之代官間」とあり,弓削島が安芸国の国人領主小早川氏の一族小泉氏や瀬戸内海の海賊衆等によって押領され,年貢未進状況が生じ,荘園領主支配の末期的様相が充分にうかがえる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7433859
最終更新日:2009-03-01




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