ケータイ辞書JLogosロゴ 朝倉荘(中世)


高知県>高知市

 鎌倉期〜織豊期に見える荘園名。土佐郡のうち。「和名抄」に見える朝倉郷が荘園化したものと考えられ,初見は貞応3年の注記を有する宣陽門院所領目録で,「新御領〈自上西門院被進之〉」として「土佐国朝倉荘」とある(島田文書/鎌遺3274)。上西門院(統子内親王)領から宣陽門院領になったもので,もとは待賢門院の法金剛寺領の1つであったことが推測される。宣陽門院領は,建長3年,養女で後堀河天皇の中宮鷹司院長子に譲られ,建治元年,後深草天皇を経て,持明院統の皇領として伝えられており,当荘の伝領も同様のものであったと考えられる。その後,応永20年の所領目録には,法金剛院領として「土佐国朝倉庄 同(守護押領歟)」とあり(東山御文庫記録/大日料7‐19),守護細川満元による押領を受けたことがうかがわれる。なお鎌倉期の元弘3年3月13日の旦那注文に「土佐国津の殿ノ御一門 同御内人々……あさくらにもしんるいあり」と見える(潮崎稜威主文書/熊野那智大社文書)。その後,戦国期には本山氏の勢力伸張に伴い,その支配下に入ったものと思われ,土佐郡池内村天満宮の棟札(県史考古資料)に「奉棟上大日本国土州土佐郡朝倉庄池内天神社一宇,大永七年丁亥弥生三日,大檀那八木実茂並才家氏安満,願主又左衛門大工藤原正守同守重」とある八木氏は本山氏のこととされている。本山氏は朝倉城を拠点として活動するが,長宗我部氏の圧迫を受け永禄6年朝倉から撤退した。以後,当地は長宗我部氏の支配下に入り,永禄11年の一宮社再興人夫割帳には「朝倉衆」として113人の名が見える(土佐神社文書/古文叢)。天正16年の長宗我部氏による検地では,広大なため3回に分けて実施され,3冊の地検帳が作成されている。9月23日に検地を始めた朝倉荘大道ヨリ南之地検帳では,朝倉村・橘谷村・ハタ江村・中ノ川村・赤畠ノ村・小芝村の小村の地域,10月24日から検地を始めた朝倉荘大道ヨリ北之地検帳では,マケン寺村・上島村・土ゐ東村・古市村・城山村・宮奥村・宮西村・大宮村・米田村・櫛田村の小村の地域がそれぞれ含まれる。また11月18日から検地を開始した朝倉荘尾立村他三村地検帳では,尾立【ひじ】村・新川堺村・宗安寺村・枝郷村・池内村などが含まれている。検地面積は,朝倉村分が本田127町5反余・出田33町7反余で,計161町2反余。橘谷村・ハタ江村あわせて本田8町3反余・出田3町余で,計11町4反余。中ノ川村・赤畠ノ村・小芝村あわせて本田12町余・出田2町1反余,計14町1反余で,朝倉荘大道ヨリ南之地検帳分の合計は186町8反余である。また朝倉荘大道ヨリ北之地検帳は合計107町余,朝倉荘尾立村他三村地検帳は合計142町9反余で,したがって朝倉荘の検地面積は都合435町9反余となる。江戸期の朝倉村の地域は大道より北にあたる。給人は国沢衆・佐川衆の侍が多く,近隣の在地土豪大熊氏や,当地の旧主本山氏も所々に見られる。古市は市場の所在地で,年未詳4月6日の長宗我部盛親書状断簡の追而書に「あさくら町」と見え,長宗我部元親が居城を岡豊【おこう】から大高坂に移した際に城の西に移したといわれるが,慶長2年3月24日の秦氏政事記には朝倉の庄屋として岡内忠兵衛のほかに「朝倉市 代官目代光留弥吉郎」と見えており,その後も市町が存在していた(蠧簡集)。なお地検帳には大宮(朝倉神社)の神田や千光寺の寺領などが見えるほか,ウクルス城が記されている。ウクルス城は長宗我部氏進攻前の当地の領主本山氏の居城である朝倉城の支城であった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7434073
最終更新日:2009-03-01




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