ケータイ辞書JLogosロゴ 井口村(近世)


高知県>高知市

 江戸期〜明治9年の村名。土佐郡のうち。土佐藩領。村高は,寛永地検帳352石余(南路志),寛文7年の郷村石付では石立のうちとあり同高,寛保3年の郷村帳376石余,「天保郷帳」440石余,明治3年の郷村帳では杓田とともに1,397石余(本田940石余・新田456石余)。元禄地払帳によれば,本田376石余うち尾池伝太夫知行48石余ほか5人の知行,武馬孫右衛門拝領知1石余ほか3人の拝領知,御小人町屋敷渡し27石余など,新田76石余うち御貢物地61石余・西内清太夫領知6石など。御小人町とも称された通町などの高知城下上町に隣接する城下四か村の1つで,村内の一部は町場化し井口町と称した。なお宝暦7年に去12月上町の類焼を受けた火防の町幅拡張が命じられ,その一環として「井口町並其西大榎より東ノ人家,此度指除被仰付」と見え,代地が与えられている(順水日記/都市史料3)。寛保3年の郷村帳による戸数167・人数588(男302・女286),馬14。また「土佐州郡志」によれば,村の広さは東西10町余・南北15町許,戸数220余,村の西および小高坂村との間には橋が架かっていた。また村内北の山中には藩の鉄砲火薬庫が2つあり,うち1つは煙硝蔵であったといい,山上には吉田氏居城跡を含め古城跡が3つあるという。文久3年3月,小高坂村境に近い堰付近で,藩内の上士と下士の殺傷事件が起きた。これは小姓組山田広衛・茶道方益永繁斎と郷士の中平忠次郎・宇賀喜久馬との間で生じた口論に端を発したものであった。寺堂には京都知恩院末の念仏山西蓮寺,一向宗永福寺・永徳寺・善立寺,仰浄院・薬師堂などがあった。神社は西王子社,祭礼は9月11日に行われた。ただし「南路志」では祭礼日9月13日とある。寺院のうち明治維新時に永徳寺は廃寺となった。一方,永福寺は坂本家と縁があって栄え,坂本龍馬一族の墓所となった。なお,明和7年長男を郷士として分家,子孫に坂本龍馬を生んだ豪商才谷屋の才谷屋記録のうち「卑家月書内之部」に,早世の子供たちを永徳寺に葬った記事が見える(都市史料3)。明治4年高知県に所属。同9年石井村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7434174
最終更新日:2009-03-01




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