ケータイ辞書JLogosロゴ 池村(中世)


高知県>高知市

 戦国期〜織豊期に見える村名。長岡郡のうち。天正5年12月7日の依光蔵進知行坪付に「一所弐段卅代〈六反タ〉池ノ村 池分」などと見え,当村内に蔵進の知行2筆,計3反30代の給地があった(古文叢)。天正15年の池村地検帳には「池村」および「池分」などと見え,当村は江戸期の仁井田村の地を含んで記され,検地面積は42町1反余うち本田28町8反余・出田6町9反余,屋敷・畠分6町2反余,屋敷数125(うち荒屋敷3)などとなっている。これらは「池四郎左衛門土居」の1反30代をはじめ,大部分が池分となっており,天正年間当時長宗我部支配下に池頼和が池・仁井田一帯を領していた模様である。当村は一部には下田分・片山分・十市分などの近隣の土豪分も見られるが,同帳末にある「仁井田之窪塩浜分」はすべて池分となっている。文禄4年の池分池村他三村残地所務帳をみると,池氏の土居にも「散田」と記されるに至っており,慶長3年の池村新塩田并下田地検帳では,36筆5町39代3歩の新塩田はすべて長宗我部氏直分(蔵入地)とされている。慶長2年3月24日の秦氏政事記によれば,当村の代官は非遊斎,庄屋は竹内又左衛門であった(蠧簡集)。なお地内には,戦国期の単郭式山城である池城がある。城跡には堀・石垣遺構が残る。戦国期には,十市栗山城主細川備前守宗桃の次子池豊前守頼定が在城したという。池氏は一時長宗我部国親と対峙したが,やがて屈服して嫡子四郎左衛門頼和は国親の息女(元親の妹)をめとった。しかしのちに頼和はその妻との間が不和となり,さらに元親に対する謀反の疑いをかけられ,文禄2年に仁井田清道寺で自刃したという(土佐国古城略史・編年紀事略)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7434180
最終更新日:2009-03-01




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