ケータイ辞書JLogosロゴ 一ノ瀬村(近世)


高知県>佐賀町

 江戸期〜明治22年の村名。幡多郡のうち。市ノ瀬村とも見える。土佐藩領。村高は,寛永地検帳81石余(南路志),寛文7年の郷村石付,「元禄郷帳」,寛保3年の郷村帳でも同高,「天保郷帳」では「伊与喜村枝郷」として110石余。明治3年の郷村帳では伊与喜1,705石余のうち。寛保3年の郷村帳では戸数26・人数111(男60・女51),猟銃7,馬19。享和元年の「西郷浦山分廻見日記」によれば,庄屋宇治平・代弥左右衛門・老善兵衛,本田80石余・深尾近江殿知行并役知26石余・余田9斗余・堀明4斗余,家数21・人数88,馬21。「土佐州郡志」「南路志」によれば伊与喜郷のうち。寺社は,「土佐州郡志」には地蔵堂・河内大明神・牛頭天王が見え,「南路志」には河内明神・牛頭天王が見える。当地は片坂峠で郡境となり,西は幡多郡,東は高岡郡。土佐藩は追放地を東は物部川限り,あるいは奈半利川限りなどと定めたが,西は仁淀川限り,片坂限り,渡川限りなどと定め,多くの追放者が片坂を経て佐賀谷に送られた。刑期を過ぎて帰る者もあったが,そのまま定住して私塾を開いたり,医業や諸種の職業に従事する者もあり,新しい文物が土地の者に伝授された。安政5年俳諧の旅に出た防意軒半開は片坂にさしかかり「坂限り住う人あり呼子鳥」と感慨をこめて詠んでいる。庄屋は,鈴村と兼帯で任命されていた(幡多郡中士族年譜/県立図書館蔵)。交通は片坂の大往還のほかに塩木の峠を経由して高岡郡与津村に至る往還を利用することが多かった。明治4年高知県に所属。同22年佐賀村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7434251
最終更新日:2009-03-01




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