ケータイ辞書JLogosロゴ いのゝ村(中世)


高知県>香北町

 織豊期に見える村名。香美郡のうち。天正16年の山田郷ノ内韮生谷地検帳に小村として「いのゝ村」と見え,筆数31筆で,検地面積は5町6反余うち田2町4反余(うち荒1反余)・山畠屋敷3町2反余(うち荒2反余)。すべて「いのゝ村 同堪介扣 猪野名」と記される。土居屋敷は「東土ゐヤシキ」と記される1反30代の山畠屋敷と「土ゐノ前土ゐ共ニ」と記される8反10代のうち2反の山畠屋敷の2か所が見え,その中間に猪野氏の菩提寺妙法寺の35代の寺中が見え,地蔵堂が現存する。長宗我部氏に仕えた猪野氏は藤原鎌足の後裔猪野六良藤原義房の子孫と伝える。義房は元久2年土佐に移り韮生【にろう】谷で土地を賜り,深山を伐り開いて田畑をつくり,その姓にちなんで開墾地を猪野々と呼び,領主となったという。子孫は相次いで栄え猪野々・柚ノ木・長瀬・日浦古味・中ノ内・清爪・白石など7名の地頭職を勤め猪野々城に住んでいたと伝える。義房より12代目の民部正義は,永正元年に山田城主基道のために攻め滅ぼされて常陸の国へ逃れ子長親,孫正道と3代の間同地の笠間時友に仕えたという。正道の子右京範道は,天文18年土佐に移り岡豊【おこう】城に来て長宗我部国親に仕え,国親の山田氏攻略に従い,山田氏滅亡後恩賞として祖先居住の地猪野々と清爪を得て猪野々に居城したと伝える。範道は弘治3年には田村で知行を賜り,天正12年には元親より安芸郡の和食・西分で土地を賜ったという。範道は仏教に帰依し,法名を常心といった。常心の子勘助範実は長宗我部元親に仕え根須でも扶持を賜ったが,長宗我部氏の滅亡後は浪人となったという。慶長6年山内一豊が入国すると先祖以来韮生の豪族であったことが聞こえ,浦戸城に召し出されて猪野々村の名本職を仰せつけられ,名を助左衛門と改めたという(香北町史)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7434303
最終更新日:2009-03-01




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