ケータイ辞書JLogosロゴ 内谷村(中世)


高知県>春野町

 織豊期に見える村名。吾川【あがわ】郡のうち。天正17年の喜津賀東分地検帳には「東分内谷村」あるいは「東分内谷」と見え,当村分の面積は63町7反余。大部分が「左京進殿御分」で,かつては吉良親実の所領であったと思われるが,継嗣問題で天正16年10月長宗我部元親に死を命じられ,検地の頃はその所領は没収され,多くの家臣に給地として,また百姓扣地として分与されたようである。屋敷数83(春野町史)。「秦士録」によれば給人総数153うち在地給人13・非在地給人140(同前)。永浜衆・横浜衆・浦戸衆・大高坂衆・種崎衆・御奥浦衆・国沢衆・常住衆などの給人を見ることができる。文禄4年4月13日の長宗我部盛親知行宛行状には「坪付 宮地五郎左衛門給〈六ケ所〉合壱町弐分勺〈西分 内谷 吉原〉」と見え,当地などが宮地五郎左衛門に宛行われている(蠧簡集)。同日付の長宗我部氏奉行連署状に「坪付 宮地五郎左衛門給 合五反三代〈西分 吉原 仁之村 内谷〉」と見え,内谷などあわせて5反3代の地が宮地五郎左衛門の給地となっている(蠧簡集)。また同日付の長宗我部盛親知行宛行状には「〈十二ケ所〉合壱町壱代三分〈内谷 森山 吉原 東諸木〉」と見え,当地などが甲斐田修理に宛行われている(同前)。同年4月17日付の長宗我部氏奉行連署状には「一宇拾八代弐分勺〈上〉〈内谷村惣兵へ扣〉吉光名」と見え,内谷村惣兵衛の扣地が甲斐田修理の給地とされている(同前)。また同年5月10日の長宗我部盛親知行宛行状によると彦左衛門に宛行われた給地12か所のうちに「内谷」と見える(同前)。なお,慶長3年12月10日の長宗我部盛親知行宛行状によると当地などが堀内権丞に宛行われている(同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7434426
最終更新日:2009-03-01




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