ケータイ辞書JLogosロゴ 枝川村(近世)


高知県>伊野町

 江戸期〜明治22年の村名。土佐郡のうち。土佐藩領。村高は,寛永地検帳917石余(南路志),寛文7年の郷村石付917石余,寛保3年の郷村帳917石余,「天保郷帳」1,018石余,明治3年の郷村帳1,604石余(本田917石余・新田687石余)。元禄地払帳によれば,本田861石余は御蔵知と生駒木工など18名の知行とされ,新田193石余は御貢物地と生駒木工など17名の知行,山内監物など2名の役知,前田半十郎など4名の領知。「南路志」には朝倉のうちと見える。「土佐州郡志」では,村の規模は東西35町許・南北40町許,戸数135,「其土赤黒,村西有城,西至佐川之大路」とあり,寺社として阿弥陀堂・地蔵堂5・薬師堂・観音堂跡・八幡社・伊不幾大明神社・天王社3・毘沙門社・天神社3・蔵王権現社・竜王社・比慈利神社がある。寛保3年の郷村帳によると,戸数196・人数911(男502・女409),猟銃2,牛2・馬127。承応元年8月土佐藩執政野中兼山が仁淀川本流に長さ3町48間・高さ1間4尺の八田堰を完成したが(皆山集),当村民にはその恩恵はなく,苦渋をもたらした。堰の位置と宇治川河口との距離が約100mあり,堰堤上と宇治川上流3kmの地点の落差が僅少なので洪水時には本流仁淀川からの逆流水で田が冠水した。降雨が少し続くと稲作は皆目駄目になるので農地を山地に求め,畑作が主力となった。当村の農民は水との戦いに腐心し,庄屋楠瀬六右衛門は安永元年から天明7年まで15年の年月をかけて新堤防3,730間・川筋堀役分3,270間など1万3,783間の工事を行い,水害防止に努めるなどしている(楠瀬六右衛門碑文・岡本勉氏所蔵文書/伊野町史)。こうした努力にもかかわらず被害は続き,沼地・湿地の水位を少しでも下げるため宇治川の土砂さらえが昭和期まで続けられた。明治4年高知県に所属。同20年高知〜伊野間の新道が村内を貫通する。同22年宇治村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7434497
最終更新日:2009-03-01




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