ケータイ辞書JLogosロゴ 大野郷(中世)


高知県>伊野町

 鎌倉期〜織豊期に見える郷名。吾川郡のうち。弘安8年8月日の東大寺注進状案に「注進 本朝惣国分寺兼和州国分寺東大寺御封等事」として「土佐国 一,御封百戸内〈土佐郡鴨部郷五十戸 吾川郡大野郷五十戸〉代米二百卅石二斗六合」と見え,鴨部郷とあわせて100戸が,東大寺の封戸とされている(東大寺文書/鎌遺15682)。暦応3年正月28日の堅田経貞軍忠状に「大野・中村名主庄官以下凶徒等数千騎,寄来陣取于潮江山之間」とあり(下元家文書/古文叢),北朝方についた細川定禅の大高坂城攻略に際して,当地の土豪層が南朝方にくみしたことがわかる。貞和2年9月20日の法印有俊譲状に同4年2月20日の追記として「一通 綸旨 土左国大野・仲村国衙年(貢脱カ)御寄進事」とあり,当地の国衙年貢がこの頃すでに醍醐寺に寄進されていたことがわかる(醍醐寺文書/大日古19-1)。また年月日未詳の醍醐寺方管領諸門跡等所領目録には足利義満から賜った旨の押紙があり,「一,左女牛若宮別当職 社領土左国大野・仲村両郷」と見え,南北朝末期〜室町期頃には京都左女牛八幡宮の社領となっている(同前)。なお同様の足利義教・義政の目録が残り,応仁・文明年間頃まで室町将軍家からの安堵が下されていた。また室町期のものと推定される年未詳の六条八幡新宮放生会用途注進状には仲村郷とともに「大野郷」が見え,六条八幡新宮社の8月の放生会の用途のうち,米のほか砂車力・畳・相撲浴衣布・相撲饗膳などを負担している(石清水文書/大日古4-6)。織豊期に入り,当郷内では天正年間の検地帳は残存せず,慶長2年に行われたものが残る。慶長2年の弘岡地検帳(2冊)と弘岡村地検帳(1冊)があり,その冒頭には「土佐国吾川郡大野郷弘岡村地検帳事」と記され,同じく八田之村地検帳には「土佐国吾川之郡大野郷八田之村地検帳之事」,大野郷伊野村地検帳には「土佐国吾川郡大野郷伊野村地検帳事」などとあり,当郷内は弘岡村・八田村・伊野村の地域からなることがわかる。なお弘岡村には上之村・中之村・下之村が見えるが,これらは天正の検地の弘岡村が分村したと思われる。またこのうち上之村・中之村については同年または年未詳の弘岡上之村他一村散田帳(2冊)と弘岡上之村他一村散田帳が残る。これらによれば織豊期における当郷域は現在の伊野町から春野町弘岡上・弘岡中・弘岡下の地域に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7434690
最終更新日:2009-03-01




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