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- 片町(近世~近代)とは
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![]() | 片町(近世~近代) 江戸期~昭和44年の町名江戸期は館林城下19町の1つ(館林記/県史料集2)延宝2年の館林城下町図(館林市立第一資料館蔵青山文書)によると,館林城大手門西側,南北の濠沿いを走る道路に沿って形成された町人町町名の由来は片側のみの町であることによる当町域で城地と町人町が分けられ,西側一帯は商家が軒を並べ,東は大手門を中心として,その左右の土居と城濠が城地を囲んでいた安永5年3月,高山彦九郎は江戸への旅の途中で館林城下を通っており,その旅日記「江戸旅行日記」中に当町について「札の辻に東に入りて,れんじやく町といふ,堀ばたへ出づ,堀は南北に三,四町逢手門南向也,爰を片町といふ」と記している「館林記」によれば,延宝2年には板葺家21,人数は男42・女31,馬3(県史料集2)弘化3年の町方引渡帳(館林藩史料/館林双書)には,長さ2町13間余,家数18,ほかに町役人の無役屋敷2とあるこの町役人は名主・問屋の2軒にあたり,うち問屋は町のほぼ中央にあり,給金5両・給畑4反歩で,この頃には太郎次が勤めていた「嘉永元年館林城下地図」では,堀端までの道幅21間2尺,北部の道幅7間3尺,家数21うち御用地1とある明治年代に入り,「県邑楽郡町村誌材料」による耕宅地9反余,ほかに「お茶のおばさん」とよばれる小祠(愛宕祠)について記されている大手門跡の北西にあり,風邪に霊験があるとされる古くは城内にあり,関の神であったが,城下に移されると咳の神になったという町名は,明治22年館林町館林,昭和29年からは館林市館林の通称町名として存続してきたが,同44年本町1~4丁目となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 片町(近世~近代) 江戸期~現在の町名近世には出羽国秋田郡大館町内町のうち秋田藩領大館城に南接し,町の北側は城の堀となっていて南側にのみ住家があったことから町名を命名宝永3年検地帳では大館給人9軒の町と記載寛永17年2月羽生与右衛門が火元で大火大館内町・外町・城郭すべて焼失この片側の城濠は給禄俸還者に払い下げられ,明治8年から25,26年にかけて埋め立てられ宅地,あるいは道路となる明治10年東大館町片町となり,同17年役場・大館裁判所を設置同22年から大正2年まで北秋田郡大館町東大館片町となり,以後は大館町片町明治35年郡立大館図書館・同38年穀物検査所大館支所などを設置長倉町に隣接する官公庁街として発展昭和26年からは大館市片町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 片町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は出羽国由利【ゆり】郡のうち城下町本荘の一画をなす慶長7年~元和8年最上氏領(楯岡豊前守代官支配),同8年本多正純領,同9年から本荘藩領町名は,古雪【ふるゆき】川(子吉【こよし】川)の左岸に面する側のみ民家があったことによる(本荘自治史)城下の西端に当たり,東は観音町,西・南は原野(出戸町【でどまち】字井戸尻),北は子吉川明治22年以降由利郡本荘町,昭和29年からは本荘市の町名となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 片町(近世~近代) 江戸期~昭和39年の町名江戸期は新発田【しばた】城下の1町武家屋敷地城の北側,中曽根(町中曽根)と並行して片側にのみ家並みがあったので町名となった昔は仲間・馬方などの屋敷が多かった5代藩主溝口重元の実母智光院の住居が当町にあったので,智光院を片町様と呼んだという明治22年新発田本村,同34年新発田町,昭和22年からは新発田市に所属世帯数・人口は,昭和6年24・118,同30年18・84同39年西園町1~3丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 片町(近世~近代) 天正年間~昭和40年の町名はじめ坂田郡長浜町のうち豊臣秀吉の長浜城下造営により成立江戸期は瀬田村領年貢地元禄8年の家数37・人口158明治5年滋賀県に所属同22年坂田郡長浜町成立に伴い長浜町片町,昭和18年市制施行に伴い長浜市片町となる人口は大正4年223,昭和10年197,同40年169で減少の傾向にある同40年現行の大宮町・朝日町の各一部となる(坂田郡志)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」