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- 川平村(近世)とは
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![]() | 川平村(近世) 江戸期~明治8年の村名豊後国速見【はやみ】郡八坂【やさか】荘のうち高山川の上流右岸の山間に位置する文禄4年前田玄以領,慶長元年杉原長房領,同4年中津(のち小倉)藩細川領,寛永9年木付(のち杵築)藩小笠原領,正保2年から同松平領元和8年の「小倉藩人畜改帳」では木付上庄に属し,長岡興長知行地村高は24石余,家数3・人数9,牛1「正保郷帳」では上庄村のうち「見稲簿」18石余,「天保郷帳」「旧高旧領」35石余文久3年の田1町8反・畑3町2反,5歳以上の人数27(工藤家文書)細川領時代は森永手永,延宝7年八坂手永,文化元年八坂郷のうちとなり,岩屋組に属した天保以後に国東【くにさき】郡安岐郷より速見郡八坂郷に編入されたもので,それ以前の支配については不明である川平村は城下から城ケ谷峠へと通ずる道に近く,岩屋村の西方の深い谷をはさんで,山の急斜面と谷底のわずかの平坦地に集落を作っていた自然の湧き水や小さい溜池の水を利用して水田を開き,米作と七島藺を主要な農作物としていた農間余業に七島表(畳表)を織った東山神社は岩屋組の神社であるが,弘安7年にこの地の地頭職であった岩屋河内守頼親が創建したという明治4年大分県に所属同8年筒木・尾迫村を合併同年岩屋村と合併して岩谷村となる現在の杵築市大字岩谷のうち |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 川平村(近世) 江戸期~明治8年の村名河平とも書く豊後国大野郡野津院のうち大野川の支流吉田川上流右岸に位置する文禄3年福原直高領,慶長2年太田一吉領,同5年からは臼杵【うすき】藩稲葉領吉岡組に所属村高は慶長2年82石余,村位は下(野津院御検地帳)「正保郷帳」145石余,うち田86石余・畑58石余,吉岡村の村高を合わせたものか「見稲簿」82石余,「天保郷帳」84石余,「旧高旧領」82石余鎮守は愛宕神社・天神社明治4年大分県に所属同8年吉岡村・篠枝村・一ツ木村と合併,吉田村となる現在の大野郡野津町大字吉田のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」