ケータイ辞書JLogosロゴ 喜津賀郷(中世)


高知県>春野町

 戦国期に見える郷名。吾川【あがわ】郡のうち。木津賀あるいは木津加とも見える。永禄7年2月日の堀内九郎左衛門尉知行坪付に,九郎左衛門の知行地1町4反のうちとして「〈クスアナクチ二反之内横浜神田之代〉一所壱反 きつか郷 同し(主分)」「〈タナカ〉一所壱反卅代 きつか郷〈東一成名〉三郎衛門ひかへ」と見える(古文叢)。また同日付の同じく堀内九郎左衛門尉知行坪付には「きつか」として2筆が記される(同前)。永禄11年の一宮社再興人夫割帳によれば,長宗我部氏による一宮社造営の際に,「木津賀衆」から27人,「同地下衆東分」から16人,「同地下衆西分」から74人の人夫が動員されている(土佐神社文書/古文叢)。天正15年10月23日の吉良親実判物に書き上げられた村の1つに「喜津賀」と見える(古文叢)。天正17年,長宗我部氏が当地で検地を行っており,仲村郷喜津賀西分地検帳,同年の喜津賀東分地検帳2冊があり,当地は仲村郷のうちで,東分と西分に分かれていたことがわかる。仲村郷喜津賀西分地検帳による検地面積は126町5反余,2冊の仲村郷喜津賀東分地検帳による検地面積は283町4反余。近隣村との境界については喜津賀西分地検帳に「西ハ弘岡大堺北ハヲンヒキ岩」と記され,天正17年の長浜村地検帳には「タレウツノミ子喜津賀大堺詰テ」,同年の仲村郷森山地検帳には「同しノ南川詰テ,川ヨリ東喜津賀森山大堺王子,ハナ浜限詰テ」と記され,喜津賀は,東は長浜村,西は弘岡村・森山に接していた。仲村郷喜津賀西分地検帳には多くの小村が見えるが,江戸期には西分村と西諸木村になった。一方,2冊の仲村郷喜津賀東分地検帳によると東分には内ノ谷村・東分諸木村(東諸木村)・戸原村・吉原村が属していたが,東分という地名は残らなかった。また喜津賀はもと土豪の木塚氏の領した地域であり,仲村郷喜津賀西分地検帳には一部に「喜津賀分」と見えるが,東分の地検帳では多くが「左京進殿御分」と記され,吉良親実の旧領となっている。そのほか東分には横浜衆・永浜衆・大高坂衆・御奥浦衆・常住衆などの給人が見える。なお木塚氏については,「南路志」に「古城 木塚左衛門居之」ともあり,一時大平氏に,のち本山氏に応じたものと思われる。文禄3年10月18日の河島三郎右衛門知行坪付には「木津加」と見え,6筆あわせて8反35代の田畑屋敷が河島三郎右衛門の給地とされている(古文叢)。文禄4年5月10日の長宗我部盛親知行宛行状には「〈喜津賀西分〉九衛門殿分」「〈東分〉吉則名」と見え,当地などが彦左衛門に宛行われている(蠧簡集)。文禄5年3月27日の吉松与右衛門知行坪付に「在津御加増として木津加ニて御給被仰付替ニ徳政申請之由候」と見える(蠧簡集)。慶長2年3月24日の秦氏政事記には中五郡代官庄屋のうちに「一,木津賀 人数預り」として前田大夫兵衛,庄屋として植田吉左衛門が見える(蠧簡集)。慶長3年12月10日の堀内権丞知行坪付では,当地などあわせて2町5反6代5分の地が堀内権丞の給地とされている(蠧簡集)。中世の喜津賀は江戸期には西分村・西諸木村・内ノ谷村・東諸木村・芳原村となった。なお江戸期には西分村が見えるが,「南路志」には,「木塚村 成曰西分村」として同村の記述がある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7435247
最終更新日:2009-03-01




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