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- 下野尻村(近世)とは
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![]() | 下野尻村(近世) 江戸期~明治8年の村名会津地方北西部,阿賀川西岸に位置する河沼郡のうち会津藩領野沢組に属す村高は,文禄3年の蒲生高目録で501石余,文化15年の村日記(県史10下)では528石余,「天保郷帳」552石余,「旧高旧領」568石余用水は,宝永3年構築の惣蔵沢堤,享保20年構築の琵琶沢堤,享保年間構築の九日田堤,坂下堤などを利用(新編会津)寛文10年の家数74軒,男228・女218(万覚書)化政期の家数67軒,端村大下野尻13軒(新編会津)当村は越後街道駅所であったため高札が立てられ,西部には一里塚があり,上野尻村から車峠を経て白坂村へ継いだ農間期には上りは野沢村,下りは1~15日は宝川村に,16~30日は白坂村に荷物を運送した(貞享2年風俗改書上/会津風土記風俗帳2)車峠は,寛永年間加藤嘉明の若松城の修築の際,安座村の肝煎二瓶七左衛門が材木運搬のため新しく開き,寛政元年峠頂上に茶屋2軒ができた(新編会津)当村は河谷村の栗木平・高森山に入会地をもち銀2匁5分を河谷村に納めていた(貞享2年風俗改書上)北部に小山宮内少輔政能の住したという小山館跡があった(会津古塁記)端村大下野尻と徳沢村および耶麻【やま】郡滝坂村では鮭・鱒をとり,川役は3村合わせて,銀百匁,うち大下野尻は33匁3分3厘を上納していた(貞享2年風俗改書上)出原紙として御用紙を産し,紙役を上納した(同前)神社は大天神社・諏訪神社・熊野神社寺院は臨済宗福聚山慈眼寺,同寺には大永8年の経筒があったが,寛政5年の火災で焼失したというほかに真言宗西福山南光院,同寺は古く太子守宗であった明治4年の戸数80・人口497(若松県人員録)同8年徳沢村と合併して村岡(群岡)村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」