ケータイ辞書JLogosロゴ 下八川村(近世)


高知県>吾北村

 江戸期〜明治22年の村名。吾川郡のうち。当村は弘瀬村とともに下八川郷を形成する。土佐藩領。村高は,寛永地検帳346石余(南路志),寛文7年の郷村石付でも同高,寛保3年の郷村帳347石余,「天保郷帳」417石余,明治3年の郷村帳では弘瀬村を含めて919石余(本田366石余・新田552石余)。元禄地払帳によれば弘瀬村とあわせて,本田366石余で御蔵知11石余のほかは白井金右衛門など10名の知行,新田222石余はすべて御貢物地。「土佐州郡志」では弘瀬村を当村のうちとし,村の規模は東西30町余・南北38町52間,「村辺有川流,其土黒或赤」とあり,集落別の戸数は土居村7・漉地10・程之内16・横野10・弘瀬6・打木26,寺社に禅宗竜光寺・馬頭観音堂・薬師堂・阿弥陀堂・正八幡・八幡宮・天神社(弘瀬村)・川内大明神社と小社が3つある。寛保3年の郷村帳によると,戸数97・人数847(男436・女411),猟銃25,牛56,馬47。「南路志」には,当村は小川のうちと見え,社堂に正八幡・十二社東宮大明神・八社河内大明神・阿波殿・聖宮・白王神・天神・御子神・聖・御剣・薬師堂・阿弥陀堂と竜光寺の退転した観音堂がある。嘉永・安政年間頃地下支配修験明王院,地下支配神職境川山城がいた(政典条例/近世社会史考)。明王院は天台宗本山派聖護院末で程ノ内にあり,明治12年には信徒3人(下八川村誌)。明治4年高知県に所属。明治5年とされる「土佐国地誌提要」には銅山奥谷山が字打木にあるが未開とある(皆山集)。弘瀬トイレノ山銅山も同6年試掘願があったが,未許可(工業経済史)。同8年,民家を借用して漉地小学校開設,教員数1・生徒数23(下八川村史)。同10年弘瀬に下八川郵便局設置(県史近代史料)。同19年営林署下八川派出所設置,同29年上八川小林区署として移転。明治11年当村漉地に下八川・十田組合村役所を設置。同22年下八川村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7435893
最終更新日:2009-03-01




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