東諸木村(中世)
織豊期に見える村名。吾川【あがわ】郡のうち。天正17年の2冊の喜津賀東分地検帳に,「東分諸木村」と見える。一方の地検帳による当村分の面積は66町7反余。もう一方の地検帳による当村分の面積は49町9反余。かつて大部分が吉良左京進の所領であったと思われるが,長宗我部元親に死を命ぜられ,検地の頃には百姓地として分与されたり,多くの家臣に給与されている。「秦士録」によれば給人総数222うち在地給人13・非在地給人209(春野町史)。永浜衆・横浜衆・常住衆・御奥浦衆・御畳瀬衆などの給人も見える。屋敷数87を数え(同前),真楽寺・万福寺・満性寺などの寺院も見える。なお同地検帳に「諸木ノ内東分戸原村」が見え,検地面積は10町8反余で,ほとんどが左京進殿御分となっている。同村は東諸木の南部の土佐湾に面した地域で,のち戸原として江戸期の東諸木村に含まれた。文禄4年4月13日の長宗我部盛親知行宛行状には「坪付 甲斐田修理〈十二ケ所〉合壱町壱代三分〈内谷 森山 吉原 東諸木〉」と見え,当地などが甲斐田修理に宛行われている(蠧簡集)。同年4月17日の長宗我部氏奉行連署状には「東諸木村 矢野与七分」と見え,当村内の一部が宮地五郎左衛門の給地となっている(同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7437078
最終更新日:2009-03-01