- JLogos検索辞書>
- 引地村(近世)とは
「引地村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
引地村(近世) 江戸期~明治8年の村名三河国設楽【したら】郡のうち宇連川右岸,鳳来寺山東麓昔,集落はずれの山の中腹に鳳来寺の坊があったが,のち引き払ったそのため,寺を引き払った土地という意味から引地と呼ばれるようになったという(鳳来町誌)慶長7年から鳳来寺領村高は,「寛永高附」54石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに84石余慶応4年の村鑑帳によれば,家数26・人数150,農業のほか山稼・川稼・御山御用などを勤め,年貢の約半分は金納(鳳来町旧村村差出明細帳)明治7年の戸数27・人数135(鳳来寺旧領東郷文書目録)鳳来寺から行者越を経由して引地へ下りる道(現東海自然歩道)は鳳来寺道といわれ,秋葉街道との間には桐谷の渡しといわれる板橋があった同8年豊岡村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
引地村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
引地村(近世) 江戸期~明治7年の村名丹波国何鹿【いかるが】郡上林郷のうち上林川中流左岸の段丘上に位置する元和5年から園部藩領村高は「何鹿郡天田郡元禄高付帳」135石余,「天保郷帳」146石余,「旧高旧領」144石余弘化3年の戸数35・人口178(何鹿郡誌)寺院は真言宗悲喜慈山善福寺がある明治4年園部県を経て京都府に所属同7年睦合村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」