ケータイ辞書JLogosロゴ 弘岡村(中世)


高知県>春野町

織豊期に見える村名吾川【あがわ】郡のうち地名としては,室町期の宝徳3年のものと思われる大野通繁宛大野道賢書状に「去月十一日於弘岡合戦の時」と見え,当地で大野通繁らによる津野之高征討が行われている(上川村文書/大洲旧記)天正15年10月23日の吉良親実判物に書き上げられた村のうちに「弘岡」が見える(古文叢)天正18年正月28日の鍋島八郎大夫知行坪付には「一,弘岡村森山村十七ケ所 以上合壱町三反拾八代五分勺 右之内十五代川成田畠屋敷共」と見え,これらの地が鍋島八郎大夫の給地とされている(蠧簡集)文禄3年9月5日の長宗我部盛親判物には「一所壱反永代〈弘岡衆〉中島新十郎分」と見える(同前)天正の頃,当地でも検地が行われたと思われるが,地検帳は残らず,慶長2年に再検地が行われた当村の領主であった吉良親実が長宗我部元親の後継者争いで自刃させられたためである慶長2年の2冊の弘岡地検帳と弘岡村地検帳によれば,当村は上之村・中之村・下村に分かれているまた近隣の村との境は,森山との境界については天正17年の仲村郷森山地検帳に「上際弘岡大堺ツメテ」,喜津賀との境界については同年の仲村郷喜津賀西分地検帳に「西ハ弘岡大堺北ハヲハンヒキ岩」と見え,当村の東は喜津賀,南は森山に接していた慶長2年の弘岡地検帳の表紙には「帳二ツ之内 中之村 上之村」と見え,中之村に属した小村として大小路・ラクマン・薬師堂村・王子前・王子村・ツチハシ村・センタノ木・西川村・成松村・田所村・柳カ後村・万々崎村・天一神村・荒鞍ノ後・荒鞍川内・タヲノ南・釘抜村・新在家村・枝成ノ後・壱町畠村・森田村・市村・市町村・市丁・横手村・アナカマ村・北山村・カナカフ村・池ノ上村・ヲロノ本村・池ノ尻村・池ノ本村・市西村・森田ヲキ村・ヲトリ場ノ東村・ノツコノ西村・ノツコノ本村・市ノ前村・トウノ島村,もう一冊の弘岡地検帳には上之村の分が記されたと思われ,小村として大マトノ村・中原村・本沢村・是竹ノ村・森田口村・弘岡村・梶カフカ村・梶カブノ村・ハサマノ村・大谷川内・前田ノ村・西ノ城ノ村・西和田ノ村・川原田ノ村・西山ノ村・古市ノ村・川窪ノ村・三本木ノ村・イツク島ノ村・深崎ノ村・奥谷川内・長谷川内・溝サキ村・笠見村・中宮村・八幡村・八幡カラキ・行当河内・上島が見え,2村の検地面積は249町9反余小村の弘岡村については18筆が記される下村の分の小村が記されている弘岡地検帳によれば,検地面積は227町1反余また上之村・中之村には慶長2年の弘岡上之村他一村名寄帳(2冊)と弘岡上之村他一村散田帳が残っているこれらによると両村は給地と散田・名田に分けられ,給地には主作・何某作として作職が詳細に記載されているなお地検帳には見えないが,名寄帳・散田帳に記載がある村としては大谷川村・成衛門村・小山村・藤崎村・薬師ノ村・漆崎村・たとの村・森田奥村・行番川内・外田村・宍谷川内・木川内・岡谷川内・大郎二郎トヲノ畠・川分村・行成・沖本村・大的村・もちなか村・持成村・中糸・左近村・鍋ぬき・散田村・奈路・たをの村・八幡カラキ川内・たもの村・弘正などがあるこれらによると両村は給地と散田・名田に分けられ,給地には主作・何某作として作職が詳細に記載されている慶長2年3月24日の秦氏政事記には中五郡代官庄屋として「一,弘岡上・下・八田 庄屋〈壱町九反〉堅作」と見える(蠧簡集)また年未詳ではあるが12月16日付の「弘岡庄や」宛の久万二郎兵衛・山内三郎衛門連署状がある(同前)なお慶長6年9月1日の山内一豊寄進状によれば「弘岡之内妙喜寺」に屋敷2反と観音山4町が寄進されている(南路志)現在の春野町弘岡上・弘岡中・弘岡下に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7437162
最終更新日:2009-03-01




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