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- 吉田村(中世)とは
「吉田村(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 吉田村(中世) 室町期~戦国期に見える村名備前国邑久【おく】郡のうち応永33年10月16日の吉田村道浄畠地沽券(本蓮寺文書/県古文書集2)に「吉田村道浄」という人名が見え,道浄は畠地30代を売却しているただし「吉田道清」の名はこれより以前,応永26年12月1日の吉田ノ道清田地沽券(同前)に見え,牛窓の関浦の三郎左衛門に吉田道清は得枝名浜田35代を売却している次いで寛正2年2月29日の吉田ノ二郎太郎屋敷沽券(同前)に売り手の「吉田二郎太郎」,買い手の「吉田六郎三郎」の名が見えるまた文明元年8月吉日の年紀を有する備前国法華堂田畠散田注文案(本蓮寺文書)によれば,「吉田村助光名内」の畠地が牛窓法花堂(本蓮寺)の所有となっていた次いで同2年9月6日の吉田ノ四郎大夫屋敷渡状に吉田四郎大夫が石原新二郎に去り渡した地は「屋敷之在所は吉田也」と見え,同4年8月22日のわきノ藤右衛門借銭状には「吉田ふくろい田」と見える(本蓮寺文書/県古文書集2)また同14年10月29日の吉田紺屋内清信女寄進状,同じく吉田ノ六郎三郎後家屋敷畠沽券,同じく吉田北風ノ次郎太郎母畠地沽券によれば,「吉田村」内の畠屋敷25代18歩が本蓮寺に売寄進されている(同前)また文亀元年12月12日の五郎丸二郎三郎畠地沽券に「吉田彦衛門」「在所吉田」,同2年2月9日の吉田ノ助次郎畠地売券に「吉田助次郎」の名が見える(同前)元亀4年9月吉日の本蓮寺寺領帳(同前)に「吉田分」の田4町3反10代が書き上げられ,「〈吉田〉次郎右衛門尉」ほかの人名が見えている「邑久郡誌」に記載された古老の口碑によれば,中浦は往昔吉田と称したということから,現在の牛窓町鹿忍の字中浦付近に比定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 吉田村(中世) 鎌倉期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 吉田村(中世) 鎌倉期から見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 吉田村(中世) 戦国期に見える村名山田郡のうち天正13年と推定される年月日未詳阿久沢能登守宛6月18日の吉良氏朝書状(京都大学所蔵阿久沢文書/県史資料編7)が初見で「今般浅原・吉田・堤村被任本領置之間彼地へ検使可指越由,従大都承候」と,当村などは阿久沢氏の本領として任せ置かれたこれに関連する年未詳6月10日の北条氏邦条目(同前)には,吉田・堤両村では桐生衆(由良氏)の屋敷が過半となって年貢高辻で相論となっていたものを氏邦が請負って,検使を派遣して相方の言い分を聞くことが記されている由良氏は天正12年小田原北条氏と戦って敗れ,金山から桐生へ移されたもので,その結果家臣の屋敷が周辺へ拡大されたことによって問題となったのであろう... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 吉田村(中世) 鎌倉期に見える村名越後国蒲原郡奥山荘北条のうち正応5年7月18日の荒河保と奥山荘の境が定められた和与状に「自鳥屋岫至吉田入之両方尾山中円山之頂」と見える(反町三浦和田文書)嘉暦2年8月23日の関東下知状によると,正中2年6月10日島津大隅弥三郎の所領である信濃国太田荘下浅野郷一色村内弥次郎在家一宇と和田(黒川)茂実の所領「奥山庄北条吉田村内心勝在家」が相博され,この日鎌倉幕府から安堵されている(同前)現在の黒川村のうちと思われるが,詳細は不明... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 吉田村(中世) 南北朝期から見える村名会津郡のうち初見は,明徳2年5月13日某判物(新編会津所収文書/県史7)で,「諏方社務職事 千四百束苅 吉田村三百文」と見え,刑部律師什明が黒川(現会津若松市)の諏訪神社社務職に補任されたときの諏訪神社の知行地となっている「会津雑考」では,この某を蘆名詮盛と推定しているが,花押が詮盛のそれとは異なり不詳江戸期には上吉田・下吉田の2か村が見え,会津地方中部,現在の会津若松市高野町大字柳川のあたりに比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 吉田村(中世) 鎌倉期に見える村名備後国世羅郡大田荘大田方山中郷のうち山中四郷の1つ嘉禎2年の山中四郷在家目録に「吉田 在家伍拾肆宇内」とある地頭・荘官らの除分が25宇,課役を懸けられる定在家は29宇で本在家10宇・脇在家19宇からなっていた鎌倉末期には山中郷地頭富部信連と領家(高野山)の雑掌が「吉田村卅一坪」の「杤畑」なる田地の帰属をめぐって争っている(高野山文書)現在の世羅町徳市付近に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 吉田村(中世) 鎌倉期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」