ケータイ辞書JLogosロゴ 赤司(中世)


福岡県>北野町

 鎌倉期から見える地名。筑後国御井郡のうち。荘園制下では竹野荘河北郷に属した。文永10年6月10日の沙弥蓮種(草野永種)譲状(草野文書/県史資料4)に「筑後国竹野御荘河北郷内赤目(自カ)別符」とある。赤自が別符となった時期は不明であるが,鎌倉期に筑後の在国司草野氏の私領の一部であった。前記譲状では,永種から養子四郎永平に譲渡されているが,草野系図の一本では永種の曽孫永雄が赤司新蔵人を称し,赤司氏の祖とされている(筑後国史)。南北朝期の永和2年に赤自備前入道宗祐,室町初期の応永19年に赤司土佐入道性淳があり(同前),後者は北野社領筑後河北荘に対する違乱競望を訴えられている(北野林松院文書/筑後国史)。なお南北朝期に赤司城があり,暦応3年9月耳納【みのう】山中に拠る菊池武敏・新田遠江禅師・大城藤次らを討つべく上筑後に出た管領一色範氏は,今川六郎を赤司城に置いてこれを守らせている(南里文書・武雄神社文書/南北朝遺1584・1597)。戦国期になると大友親治によって赤司跡30町が草野中務少輔に預け置かれ,次いで永正5年大友義長はこれを草野太郎に安堵した(草野文書/県史資料4)。一方「筑後国史」に引く「豊西記」「蒲池物語」「赤司家記」などによれば,大永年間には大友氏の家臣吉岡鑑貞・山下親俊,続いて城後親興・野上鑑清らが赤司城を守り,その後永禄12年には紀姓の赤司資清が赤司城に拠って戦死したこと,さらに天正年間には筑前の秋月氏が赤司城を支城としたことなどを伝えている。また城戸清種の「豊前覚書」によれば,大友宗麟の将戸次鑑連が,元亀元年赤司城を造り,8月に草野から同城に移ったという。城跡は赤司八幡宮の南側にあり,堀跡が残る。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7437921
最終更新日:2009-03-01




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