ケータイ辞書JLogosロゴ 赤馬院(中世)


福岡県>宗像市

 平安末期〜室町期に見える院名。筑前国宗像【むなかた】郡のうち。大治4年乙酉10月27日の年紀をもつ赤間稲元出土の経筒銘(平遺金石文編227)に「日本国鎮西国 宗像郡赤馬院 桂田村住尼妙法」とある。桂田村の現在地比定は不明。院は郡の倉院の意であろう。下って弘安10年2月日の筑前国司庁宣によると,大山田赤馬院得末名ついて「当村は往古之国領,国司進止之地也,而氏富(宗像氏富)為開発領主,六代相伝知行無相違之由」(宗像神社文書/鎌遺16200)と見え,当院が国領であったことが推定される。ところで,大山田については,建久4年10月22日の色定法師一筆一切経仏説仏名経巻第七奥書に「筑前国内宗像社領太山田于宗像氏能住宅」と見える。また同一切経瑜伽師地論巻第三十六奥書(平遺銘文編227)に「五月二十一日 太山田之于千四郎殿之館書了」と見える。在地領主として太山田には宗像氏能や千四郎殿と呼ばれる者の名が知られ,宗像社領であった。文永8年11月10日の筑前国司某書状(宗像神社文書/鎌遺10915)には宗像宮雑掌が山田村が押妨されたことを訴えており,国司法印某はその妨げを停止する請文を出している。これと同様の請文を翌9年5月14日にも発給し(同前/同前11132)蛭田村とともに押妨停止を誓約しているが,同年7月13日にも六波羅下知状(同前/同前11065)が出され,押妨停止を命じており,それには「於彼村違乱出来之由,社家訴申之間,相触于国方之処,如八幡別当法印今月五月十四日請文者」と見え,山田・蛭田の両村が国領であったことが知られる。一方,文保2年11月日の宗像宮雑掌申状には「当社領赤馬院朝町村」と記し,朝町村が赤間院にあったことがわかる(同前/宗像郡誌中巻)。正応6年7月日の宗像社祠官等申状案によれば,朝町村は宗像社第二大神宮御供田であって,村は惣名で,そのうち一円国領は12町で得丸名と言い,宗像社一円神領は10町余,地頭下作は15町で複雑な領有関係であった。地頭も社家も半不輸之地と言っている。従って国衙に年貢,宗像社に公事を納め地頭佐々目氏が土地を支配したのである(同前/鎌遺18269)。そのため再三地頭・社家の間に相論が続く。建武元年10月21日雑訴決断所は,朝町村を厳重御供灯油料所として,年貢を筑前国衙に弁済するよう名主佐々目菊鶴丸に命じている(同前/南北朝遺146)。朝町村を国半不輸地と認定し,地頭佐々目氏を名主として貢納負担者に位置づけ,国衙・社家へ貢納の義務を負わせたのである。佐々目氏は地頭職のほかに,朝町村の名主職をも確保したことを意味している。元応3年2月15日の藤原経俊譲状によれば,藤原経俊は赤馬院須恵三郎丸田畠屋敷等を子息氏鶴丸に譲ったが(同前/宗像郡誌中巻),建長元年9月17日の領家政所下文によれば,須恵は宗像荘内にあった(同前/鎌遺7121)。時期は下るが,応永13年4月5日の武藤宗治譲状(同前/宗像郡誌中巻)によると,赤馬院内須恵三郎丸田畠屋敷を宗像社社務(大宮司)に譲っている。「宗像神社文書」には須恵村(鎌遺10868・11095)と赤間院須恵三郎丸との記載があり,須恵三郎丸は須恵村の史料所見の時期より遥か後代であることや,土穴を挟んで須恵と東西に位置していることを思えば,三郎丸は赤馬院内へ宗像荘須恵からの出作地と考えられる。従って,赤馬院と見えるのは,大山田・朝町村・三郎丸などであって,その場所は赤馬荘の周辺部である。朝町村が惣名とあるのを見れば,赤馬院は四至をもつ領域的所領単位と考えるよりも,名(国衙直結の別名)の集合体と思われる。赤間院の田数・年貢額など史料不足もあって不明。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7437937
最終更新日:2009-03-01




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