ケータイ辞書JLogosロゴ 秋月荘(古代〜


福岡県>甘木市

 平安期〜鎌倉期に見える荘園名。筑前国夜須・下座郡のうち。この付近は「和名抄」に見える夜須郡賀美郷の比定地でもあるが,それとの関係をうかがわせるような史料はみられない。正暦3年9月20日,大宰府は筥崎宮(現福岡市東区)塔院の牒を受け,筑前国司に対し,同院領秋月荘への検田使の入勘の制止を在地の夜須・下座両郡司に下知すべきことを命じた(石清水文書/平遺354)。これによると,当荘の位置は「夜須下座両郡部下北山中」とされ,夜須郡秋月地区を中心に一部は下座郡域にもまたがっていたようであるが,地理的にみて,現甘木市上秋月の田代・山見地区をも含んでいたのであろう。また,当荘はさきの正暦3年9月20日の大宰府符によればもともと空閑地であり,天慶元年に立荘されたというが,その経緯をうかがわせるような史料は他にみられない。立荘後50余年の間に検田使の入勘はなかったと述べていることからすれば,夜須郡内の鱸野【すずきの】荘とともに,承平7年に筥崎神宮寺に多宝塔が造立されて間もなくその所領として立荘され,法華三昧を維持するための諸経費を負担する荘園とされたのであろう。治安4年4月に筥崎宮塔院は宇佐弥勒寺喜多院の僧元命に委ねられ,法華三昧も元命の門徒の師資相承による勤仕とされたが,これに伴って当荘も弥勒寺領となったのであろう。承久2年,石清水八幡宮検校祐清は「秋月依井庄」を田中女房に譲与したが,この時も弥勒寺領としてみえる(石清水文書/鎌遺2697)。依井荘の位置は現三輪町依井付近に比定されるが,秋月荘とは比較的近く,同じ弥勒寺領として両荘は一体視されることがあったのであろう。仁治3年には石清水八幡宮別当宝清が弟子の権別当宮清に当荘などを譲与したが,その際にも弥勒寺領の「秋月依井庄」とされている(菊大路文書/鎌遺6104)。また同史料に「自母堂手譲得之」と注記されていることからすれば,この母堂は田中女房を指しているのかもしれない。「秋月家譜」などによれば,正治2年に梶原景時が武田有義を擁して幕府に対抗しようとして失脚した時,九州にもそれに呼応しようとした勢力があったらしく,大蔵姓原田種雄がこのことを鎌倉に急報し,建仁3年にはその功によって秋月荘を賜り,姓を改めて秋月と称したという。この伝承が事実かどうか確認は容易でなく,弥勒寺領秋月荘との関係についても検討を要する。しかし,弘安の役の従軍者に筑前国御家人秋月九郎種宗の名がみえ,戦闘指揮の中枢で活躍しているように,このころには同氏が当地で地歩を固めていたようである。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7437948
最終更新日:2009-03-01




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