ケータイ辞書JLogosロゴ 秋月城下(近世)


福岡県>甘木市

 江戸期の城下名。夜須郡のうち。秋月藩の城下町。慶長5年福岡藩主黒田長政は,叔父の黒田図書助直之を秋月に配置した。直之は切支丹を厚く保護し,慶長12年に天主堂を建立した。現在鳴渡観音堂の前から左の谷を入ったところに切支丹橋と呼ばれる小さな石橋があり,その上の畑は切支丹畑と呼ばれて,天主堂のあったところと言い伝えられている。慶長14年直之の死亡後,しばらくの間は番士が置かれていたが,元和9年黒田長政の死亡後,三男長興に秋月5万石が分知されたことにより,当地は秋月藩の城下町となった。寛永元年家中屋敷の縄張が行われ,長興に付けられた家臣が福岡から移転した。陣屋は古来秋月氏の居城のあった梅園にあり,直之の館を修理して用いたといわれている。当城下は,大部分が下秋月村,陣屋や武家屋敷の一部は野鳥村,町家の一部は上秋月村や長谷山村にあった。町人地は下町・中町・上町・今小路町・浦泉町の5町からなり,下町は魚町ともいい,また下町と中町をあわせて本町ともいった。上町は八丁口ともいったが,享和2年新富町と改称。浦泉町はもとは湯浦口と呼ばれ,天明年間頃までは家数10,その後人家が増え,享和2年今小路町から独立して一町となった。下町(魚町)・中町・上町(新富町)は肥前・筑後と豊前を結ぶ街道筋に面し,人馬問屋2軒が置かれていた。武家屋敷地は,杉馬場・虚空坂・柳原・鉄砲町・袋町・竪小路・通り丁・南中小路・北中小路・鷹匠町・原小路・浅ケ谷・凱陣橋・中央寺・四小路・新小路・兜堀・昇組・如見組などがあった。安永4年新小路に藩校稽古亭(のちに稽古観,さらに稽古館と改称)が建設され,文化3年焼失,同6年杉馬場に移された。同7年城下入口の野鳥川に目鏡橋が建設された。社寺に垂裕神社・田中八幡宮・須賀神社・日照院・長生寺・音声寺・古心寺・大涼寺・西福寺・本照寺・西念寺・浄覚寺などがある。城下の出入口に番所が置かれ,目鏡橋(下町)・石原口(八丁口)・野鳥口・浦泉口・札の辻・橋口・今小路口の7か所となり,文化9年からは5か所となる。町政の最高責任者である年行司は初め5人,文政年間には2人となるが,代々勤めた甘木屋遠藤家は,もと甘木の商人であった。文化10年の家臣数は,士183・御扶持人215・御側筒18・御足軽105の合計521。文政年間の城下の家数は,新富町66・中町63・魚町90・今小路町65・浦泉町41の合計325(風土記再調草稿)。城下の産物としては鬠が著名であった。明治初期の「地理全誌」には,元結紙18戸,塵紙11戸,蚕糸16戸,葛粉1戸(高木吉兵衛),蒟蒻5戸,紫金苔1戸(遠藤喜三右衛門),蝋燭2戸,酒5戸,醤油1戸,素麺20戸,線香1戸,樟脳2戸,菓子類5戸,薬3戸が記されている。城下の私塾として,原震平の古処山堂,吉田誼三の儼塾,中島衡平の精義艸廬,磯淳の春風楼などがあった。貞享3年517軒が焼失,その後も元禄12年・正徳4年・享保17年・宝暦12年・文化3年・文政12年と大火にみまわれている。明治4年廃藩置県により,新富町・中町・魚町・今小路町・浦泉町・鷹匠町・原小路・浅ケ谷・凱陣橋・中央寺・四小路・新小路・兜堀・昇組・如見組などは下秋月村のうち,杉馬場・虚空坂・柳原・鉄砲町・袋町・竪小路・通り丁・南中小路・北中小路などは野鳥村のうちとなった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7437950
最終更新日:2009-03-01




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