ケータイ辞書JLogosロゴ 朝町村(中世)


福岡県>宗像市

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。筑前国宗像【むなかた】郡のうち。建治3年9月11日の関東下知状に「筑前国朝町村地頭佐々目蔵人清光代教円与宗像大宮司長氏代僧隆恵相論当村田畠下地事」と見える(宗像文書/鎌遺12854)。同文書によれば,地頭方は,嘉禎2年に当村地頭職が清光の外祖父上野介資信に宛行われて以来,下地を進止したと主張している。一方,長氏方は当村が根本神領で,地頭補任は建保年間以後のことであり本主の寄進と称すべきものはなく,当社領は大宮司が執行すべきものとしている。相論の中で両者ともに朝町村を「半不輸地」と称しており,「領主進止下地,於年貢者済国衙,至雑役者,可随社家之間」ということもあり,幕府は地頭に下地の進止を認め,年貢および社役(雑役)を地頭が沙汰するように命じている。この後も相論が続き,弘安8年7月3日,幕府は朝町地頭虎王丸代心阿と宗像大宮司長氏代良円の相論について裁断を下している(同前/同前15617)。次いで正応6年7月,宗形資致以下祠官17名は,地頭虎王丸代教円が第二太神宮長日御供田・畠地等を押領したと訴えている(宗像神社文書/同前18269)。申文には,当時朝町村が「惣名」で,うち得丸名と号される一円国衙領が12町,第二太神宮長日御供田10町余,地頭下作が15町とある。その後も,文保2年11月に,宗像宮雑掌行覚は赤馬院朝町地頭法橋清禅が関東御下知に背いたとして,重ねての裁定を請うている(同前/宗像郡誌中巻)。ここでは赤間院に朝町村が含まれている。ところで,清禅は地頭とあるが,地頭職は佐々目清光からその子虎王丸(光重)に伝わっていた。正中2年4月5日の鎮西裁許状によれば,佐々目清禅は親の教円についで朝町の代官であったが,地頭職をめぐって一族の佐々目光重,およびその子の袈裟王丸代幸景との間で相論を起こしていた(宗像文書/天満宮史料10)。その後,暦応元年12月の朝町禅恵軍忠状には「筑前国御家人朝町孫太郎入道禅恵」とあり(宗像神社文書/南北朝遺1301),同2年11月6日の饗庭宣尚請文には,「筑前朝町一方地頭佐々目孫太郎入道禅恵」とある(同前/同前1419)。南北朝期頃の成立とされる朝町相伝系図(宗像郡誌下巻)によれば,禅恵は清禅の子であり,御家人として朝町一方の地頭になっていたことがわかる。一方,建武元年10月21日の雑訴決断所牒で,「厳重御供灯油料所」である朝町村の年貢を弁済すべき旨が,国衙をして名主佐々目菊鶴丸に命じられていた(宗像神社文書/南北朝遺146)。「朝町相伝系図」によれば菊鶴丸は袈裟王丸の子であり,名主職をもっていたことがわかる。応永の社家文書総目録によれば,佐々目菊鶴丸から宇佐胤泰に伝領され,貞治2年3月23日には,朝町本主として宇佐氏泰が手継文書,「朝町本主系図」をそえて相伝の職を宗像大宮司に譲っている(宗像郡誌中巻)。ここに佐々目氏から宇佐氏へ渡った朝町村の地頭職の系譜は絶え,当村は宗像社家の支配に完全に入ることになる。その後,永徳元年11月30日今川了俊は宗像氏頼に朝町村を領掌させており(宗像神社文書/宗像郡誌中巻),明徳9年4月5日の宗像社領注文では「朝町十五町」とある(余瀬文書/大分県史料25)。なお小早川氏の天正年間の「指出前之帳」によれば,宗像郡朝町村の地積・分米は,田19町余・229石余,畠17町余・81石余,合計36町余・310石余とあり,文禄4年12月1日の筑前鞍手宗像御牧三郡内知行方目録帳では,鞍手郡「あさまち村」として311石6斗8升とある(小早川家文書1/大日古)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7437984
最終更新日:2009-03-01




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