ケータイ辞書JLogosロゴ 鰺坂荘(中世)


福岡県>小郡市

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。筑後国御井郡のうち。現在の小郡市南部の上西鰺坂・下西鰺坂付近から久留米市北部の宮ノ陣町一帯までの範囲と推定される。四条家を領家とし,東寺宝荘厳院を本家とした寄進地系荘園。領家は室町期の応永13年に四条家から鷲尾家に移った(大友文書/大分県史料26)。荘内の名田としては,鎌倉・南北朝期に得富・稲吉・法師丸・五郎丸・用丸【もちまる】・永松,室町・戦国期に武清・清徳・六丁・三行などがあり,このうち五郎丸名は,鎌倉末期幕府によって,太宰府天満宮安楽寺に寄進され,以後安楽寺領となった(太宰府天満宮文書/天満宮史料11)。また荘園村落としては,鎌倉期に八町島・鰺坂村,戦国期に中村・西村などがあり,八町島については,建武元年9月2日の国司庁宣(草野文書/県史資料4)に国衙尋問使として八町島四郎入道道西の名が見え,おそらく同村を支配した在地領主と思われる。当荘は本所・領家を同じくする隣接の三潴【みずま】荘と密接な関係にあり,史料の上でもしばしば「三潴・鰺坂庄」と並記されている。永仁4年の玉垂宮並大善寺仏神事次第写(御船文書/三潴荘史料)によれば,当荘の村々が三潴荘の鎮守である大善寺玉垂宮の恒例神事諸役を負担し,あるいは同社の回廊・楼門などの造営修理役の一部が鰺坂荘に対しても課せられていることなどはその例である。また鎌倉期以来,両荘の師子・勾当職を帯して,玉垂宮および若宮の田楽座を支配した芸能集団に美麗一族があり,「梅津文書」(三潴荘史料)はその関係史料を多く含み,中世地方社寺における芸能座の実態を今日に伝えている。本荘の領家支配は,三潴荘とともに南北朝の内乱を経て次第に後退を余儀なくされた。南北朝期の永徳2年に室町幕府が探題の今川了俊に命じて三潴・鰺坂両荘の領家職を雑掌に沙汰付けさせたことなどはその現れと見てよい(東寺百合文書/三潴荘史料)。室町期になると,主として守護大友氏による荘園介入が目立ち始め,一時期菊池氏・少弐氏もこれに加わったが,戦国期には再び大友氏の分国体制が強化され,荘域の大半は同氏の家臣や草野氏・高良山座主家など国人層の知行地に充てられて,荘園体制は崩壊していった。領家鷲尾家との関係は,戦国期に入った延徳4年7月10日,三潴・鰺坂両荘を鷲尾伊佐佐(隆康)に安堵した後土御門天皇の綸旨(宣秀卿記/同前)を最後に途絶する。しかし,荘の呼称はその後も消滅せず,大友氏による知行宛行の場合も,その地名の頭には「鰺坂荘」が冠せられ,領域としての鰺坂荘は,中世末期の天正年間まで存続した。なお,北朝貞和3年9月の玉垂宮并大善寺仏神免田注文写(御船文書/南北朝遺2370)に楽人給として「一反 鰺坂村」とあり,下って天正6年の書写とされる筑後領主付(筑後国史)には鰺坂を名乗る土豪の居所を「鰺坂村」とする。宝荘厳院領鰺坂荘の中で,この鰺坂村がどこに当たるのかは不明。慶長4年3月3日に領主小早川秀秋が家臣日野左近に与えた知行方目録(萩藩閥閲録29)には「あちさか村」があり,太閤検地による村高は1,310石6斗9升。近世には上西鰺坂村・下西鰺坂村および上東鰺坂村・下東鰺坂村が成立するが,その石高合計は5,121石余で(天保郷帳),日野氏知行の鰺坂村とは一致しない。従って中世の鰺坂村は近世村落の編成過程でおそらく消滅したものと見られる。ちなみに上西鰺坂村・下西鰺坂村は中世の鰺坂荘西村の系譜をもつものと推定されることから,あるいは上東鰺坂村・下東鰺坂村の方が旧鰺坂村に由来するかもしれない。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7437998
最終更新日:2009-03-01




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