ケータイ辞書JLogosロゴ 葦屋(中世)


福岡県>芦屋町

 鎌倉期から見える地名。筑前国御牧【みまき】郡(遠賀郡)のうち。葦屋津・芦屋津とも見える。中世には対外貿易の港としてその重要度は増し,また本州赤間関などから博多津にいたる航路の中間点としてもその役割は大きかった。平安末期の源平争乱時,文治元年2月,平氏を西国に追って豊後国に渡った源範頼の軍は北上し,葦屋浦において大宰少弐種直らと戦い,これを破った(吾妻鏡)。寛喜3年4月5日の大宰府宛の官宣旨によれば,葦屋津・新宮浜の漂濤の寄物をもって宗像社の修理用途に当てるのが往昔以来の例であったと記されている(宗像神社文書/鎌遺4121)。宗像神社と葦屋津との関係を示すものである。葦屋津は中国への留学僧らがその往還に立ち寄っており,在宋6年にして建長6年,帰国した覚心は「鎮西葦屋津」より日本の船に乗りかえ,紀之湊に着き,高野山に登った(紀州由良鷲峰山法灯円明師之縁起/信濃史料4)。また,室町期の遣明使に同行し享徳3年に帰国した笑雲和尚が立ち寄ったなど(笑雲和尚入明記/信濃史料8)はその例である。なお,中国の「図書編」(文淵閣四庫全書子部276)の地図および本文に「阿世夜」「阿勢夜」の地名が見える。南北朝期になるとその争乱は九州にも深く及ぶが,建武3年2月,楠木正成・新田義貞らに敗れた足利尊氏は九州へ敗走,長門赤間関より内海行程一日にして芦屋津に着き陣をもうけた。少弐頼尚らを先陣として宗像大宮司のもとへ進発し,さらに九州の諸氏を従えて再び京へ攻めのぼるところとなった(梅松論)。ところで芦屋・山鹿の辺りは中世鋳物師集団の居住した所でもあり,芦屋鋳物師は芦屋釜の名とともによく知られている。観応元年の年紀をもつ禅寿寺の鐘銘に「大日本国筑前州葦屋津遠賀山禅寿禅寺」とあり,応永2年の年紀をもつ金台寺の鐘銘には,「筑前国葦屋津金台寺」,あるいは室町期文明6年の鐘銘には「大日本国西海道筑之前州山鹿庄葦屋津金島山法輪寺」などとあり,これらの鐘はその手になるものであろう。応仁3年10月22日の銘をもつ対馬清玄寺鐘には「筑前州葦屋金屋大工 大江貞家」と鋳物師の名も見えている(日本古鐘銘集成)。遠賀川河口を中心に勢力をのばした麻生氏は芦屋鋳物師を掌握し,その生産・販売に深く関与しており,のち筑前守護となり麻生氏ともかかわりの深い大内氏も麻生氏を通じて関与していた。芦屋でつくられた釜は,狂言の中にも「あの釜はさだめて芦屋であろう」(子盗人/狂言集)といわれたように工芸的にもすぐれ著名であった。戦国期の天文19年閏5月の麻生隆守の真継兵庫助宛書状に「蘆屋津鋳物師公事足之事,致愁訴候……委細使者金生修理亮可申入候,仍釜壱ケ進献候」とあり(真継文書/中世鋳物師史料),この時期になってもなお麻生氏が芦屋鋳物師とかかわりのあったことを示している。室町期に入り,応永9年に花山院長親の手になる「衣奈八幡宮縁起」には,記紀にみえる神功皇后の新羅遠征譚をうけて,皇后が葦屋の津に船をつけたと記している(和歌山県史)。世阿弥晩年の作といわれる「是は九州芦屋の何某にて候,われ自訴のことあるにより在京仕り候」ではじまる謡曲「砧」は,そこに描かれる女の妄執は作者自身と二重写しといわれるが,女の出身を芦屋としたのは芦屋釜などを通じて芦屋のことが京にまで知られていたことによると考えられる。ところで文安5年8月日の麻生弘家の知行目録中の捴諸浦内塩浜其外所々目録には,「一所 山鹿・葦屋津」と見えており,遠賀川河口の要港として麻生氏の支配下にあった。弘家,その子弘国の麻生氏の惣領職をめぐっては,一族の矛盾対立があり,必ずしも安定したものではなかった。その矛盾は家延が惣領職を要求して花尾城で反旗をひるがえす形で露呈した。応仁・文明の乱も一段落し,新たに豊前・筑前の守護をも兼ねた大内政弘は帰国すると,幕府奉公衆たる麻生氏の内紛に武力介入し,家延を処分するところとなった。文明10年には配下の安富弘範が蘆屋津より花尾城諸口に着陣した(正任記/大日料8‐10)。麻生氏の内紛もひとまず落着したのち,文明12年大内政弘の招きで山口を訪れた連歌師宗祇は,筑前にも足をのばし,蘆屋において「塩やかぬあしやの秋は哀なる月にけふりやいとひそめけむ」の一首を詠んでいる(宗祇法師集/群書15)。戦国期になると,芦屋の辺りは,交通・軍事上の要衝として麻生氏のほか,宗像氏・大内氏・大友氏・毛利氏などの諸勢力の及ぶところとなる。永禄3年,前年に筑前等の守護を兼ねた大友氏に攻められ大島に退いていた宗像大宮司氏貞は旧領を回復したが,そのうちの遠賀荘は「限芦屋津・広渡村」とあり,麻生氏の勢力圏に接していた。同10年から12年頃にかけての毛利氏の九州進攻に際しては,芦屋沖が重要な役割を果たし,「芦屋・若松の渡り大事ニ思召」してという認識が毛利方にあった(森脇飛騨覚書/山口県史料中世編)。この間大友氏と対立する毛利方にあった麻生氏は,山鹿・葦屋を要撃せんとする密計を毛利方に報じ,その忠誠を賞された(麻生文書/大日料10‐3)。天正13年の宗像大宮司分限帳にその支配下の56か寺の内に,「四町五反半〈遠賀郡山鹿葦屋村〉金台寺」がみえている(宗像郡誌下巻)。なお,天正15年,九州平定を果たした豊臣秀吉は,天正20年正月24日,朝鮮出兵に当たって小早川隆景に対し,博多〜芦屋間および芦屋〜小倉間の舟と交通の確保をはかることを命じた(堅田文書/萩藩閥閲録9)。また同年のものかとみられる秀吉上洛諸泊次第写によれば,名島(泊)―宗像―あしや(泊)―小倉―関―長門国府(泊),とその経路が記され,芦屋での宿泊が予定されている(小早川家文書1/大日古)。文禄4年,秀吉は麻生氏を筑後に転封し,麻生氏は当地を去った。慶長3年,秀吉は,博多等を蔵入地として代官に石田三成を任じ,同年6月には三成はあしやを経て大宰府に至った(阿保文書/博多史料5)。慶長5年,黒田氏入部以来,遠賀川や洞海湾の利用は頻繁となり,芦屋津は木材をはじめ物資集積地として,また沿岸航路の港としてにぎわうところとなった。慶長16年7月にはオランダ東インド会社のブラック号が九州北岸を航行し,相ノ島から芦屋を経て下関に入港している。芦屋について,「同所の浜は,白砂山状をなせり」と描写している(和蘭東印度商会史/大日料12‐8)。天正年間の小早川氏の「指出前之帳」によれば,芦屋村の地積・分米は田9町余・136石余,畠33町余・178石余,合計42町余・315石余。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438004
最終更新日:2009-03-01




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