ケータイ辞書JLogosロゴ 芦屋村(近世)


福岡県>芦屋町

 江戸期〜明治22年の村名。筑前国遠賀郡(寛文4年御牧郡が改称)のうち。慶長〜寛文年間に一時期は芦屋町と称した(芦屋町誌)。福岡藩領。明和6年には乙丸触(同前),文化9年には岩瀬触(遠賀郡誌),天保6年には木守触(芦屋町誌)に属す。村高は,「慶長国絵図」では芦屋町と見え,1,069石余,「正保郷帳」でも芦屋町と見え,1,090石余(田118石余・畑762石余),「元禄国絵図」1,190石余,「天保郷帳」1,297石余,「旧高旧領」1,190石余。枝郷には,粟屋村と楠木正成の子孫が築城し,本宿として人馬継立てがあったという大城村そのほか寺中町がある。当村は村方と岡湊と称された北東部の町方,それに北部の浦方の3つに区別された。村方の集落は大城・粟屋・浜口・東・神武などがあり,西川が当村内で遠賀川に合流する。また神社に神武天皇社,寺院には天台宗修験派東照山大宝院がある。神武天皇社では,文化14年に毎年8月15日から20日間農具市を開くようになる(芦屋町誌)。町方は,東町・船頭町・中ノ浜町・金屋町・中小路町・市場町・幸町の7町を通衢とし,横町(中ノ浜町)・寺坂(金屋町)・横町(古くは橋本へ出る通路)・金台小路(中ノ小路町)・観音小路(同前)・薬師小路(市場町)・屋敷(同前)・横町(同前)・三軒屋町(幸町)の9町を横町とする(遠賀郡誌)。なお,船頭町は船囲場の舟手を集住させたことに由来するという。黒田長政の入封後,造船所が存在し(若松市史),また当町の長野某の蔵が近隣4郡の年貢米収納にあてられていた。年貢集荷地はのちに享保2年修多羅村石崎に移転,堀川運河の開通もあり当町方はさびれた。しかし,櫨・焚石・陶器・鶏卵・干鰯などの積み出し港として活況を呈し,「芦屋千軒,関千軒」と下関と並び称せられるほどになった。文化9年には町方にも庄屋が置かれた。また文政〜天保年間に鶏卵・焚石,嘉永3年生蝋の各藩会所が設置されている(芦屋町誌・八幡市史)。町方の戸数・人数は,文政4年543・2,609,嘉永元年443・2,941(芦屋町誌)。町方には,神社は岡湊神社・岩津神社,寺院は天台宗江岳山西福院の海雲寺・禅宗潮音山観音寺・同宗覚海山禅寿寺・浄土宗悟真山光明寺・真宗慈雲山安養寺,ほかに時宗海雲山の金台寺・浄土宗西方山極楽院の安長寺がある。浦方については,古くは中小路町の一部が今浦と称され,河口地形の変化により北部に集落が移動して,明和年間頃まで渡海町と呼ばれ,のちに浜崎と改称したものという(遠賀郡誌)。享保元年船着番所が設置される。当浦方の西の三里浜・岡の松原に漁舟が係留されていた(筑豊沿海志)。延享5年吉永清三郎(俵屋)が浜崎に石波止を完成(続風土記付録・芦屋町誌)。また田中屋伝三郎は芦屋魚市場を開設,博多・小倉の魚市場と並び称せられた(筑豊沿海志)。浜崎には恵比須神社がある。明治初期の村方の戸数104・人口532(男263・女269),牛40・馬19,田29町余・畑84町余・大縄田畑28町余・山林217町余,特産物は松露・川魚・生蝋,大城・粟屋に蝋板場があり,正租は米・大豆190石余,雑税は米・大豆5石余と金13円余,町方の戸数799・人口3,413(男1,782・女1,631),商船11・小船6・川艜106・漁船4・小漁船13・農業船6・渡船1,浦方の戸数121・人口506(男247・女259),商船17・小漁船1,租税は金4円余(地理全誌)。明治6年芦屋小学校開校(県史資料1)。同22年市制町村制施行による芦屋村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438005
最終更新日:2009-03-01




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