ケータイ辞書JLogosロゴ 甘木村(近世)


福岡県>甘木市

 江戸期〜明治22年の村名。筑前国夜須郡のうち。福岡藩領。天正年間の「指出前之帳」によれば,当村の地積・分米は,田81町余・1,315石余,畠45町余・185石余,合計126町余・1,500石余。村高は,「慶長国絵図」1,906石余,「正保郷帳」2,138石余(田1,673石余,畠464石余),「元禄国絵図」2,176石余,「天保郷帳」2,211石余,「旧高旧領」2,183石余。日田街道と秋月街道とが交わる地に位置し,甘木宿・甘木町とも称し人馬継所があった。延宝4年の町数15町,戸数523・人数3,377,馬・牛173(続風土記)。町場は東町といわれる八日町・馬場町・水町・七日町・四重町・下新町と,西町といわれる上新町・四日町・山領町・高原町・庄屋町・後町・二日町・川原町・横内町の15町からなる。上新町・下新町は寛文年間頃に立てられた。元禄年間頃までは毎月2・4・7の日に九度市が立った。元禄年間に八日町西側に店6軒,さらに七日町にも横戸口の店が出来て,常設の店舗が増加していった。産土神は七日町の祇園牛頭天王社(祇園社,現須賀神社)で,6月15日の祇園会は甘木最大の祭。馬場町に臨済宗甘木山安長寺がある。また後町に浄土宗浄土寺,水町に同宗法泉寺,庄屋町に日蓮宗常香山妙照寺,二日町に浄土真宗無量山光照寺,七日町に光雲山教法寺がある。庄屋は寛保年間頃までは東西に各1名,寛保2年以後は1人となった。山領町に御茶屋が置かれていたが,寛延4年には廃止。四重町には代官所があり,年貢の収納蔵が置かれていたが,寛延4年代官が廃止され,筑後国境を担当する境目奉行が置かれた。後町には郡屋があり,石田家が郡屋守を勤めていた。甘木地方は,福岡藩の支藩である秋月藩領のなかに飛地のような形で存在していたが,当地は秋月城下よりも経済的な力が強く,福岡藩領でありながらも当地は実質的に秋月藩の経済を支配していた。秋月藩最大の商人で,代々秋月町の年行司を勤めた甘木屋遠藤家も,もとは甘木の商人。本村竜泉池傍らに住む和田氏のすく紙は好品として早くから著名。江戸中期以降,辛子(菜種)をはじめとする商品流通の発展を背景として福岡藩第一の在郷町となり,宝暦年間には福岡・博多の城下町商人が一手に支配していた辛子油を独自に販売することを願い出るまでになった。また当時櫨蝋の栽培の一大中心地となり,寛政8年福岡藩が櫨蝋の専売制を実施したときには,最も強くその実施に反対した。寛政年間の戸数775・人数3,420(男1,822・女1,598),馬82・牛3,瓦工3・素焼物師6・絞染工9・薬肆7・製薬店6・酒家10・木綿晒屋8・蝋油屋25・蒟蒻屋5,ほかに寒具屋・饅頭屋などがあった(続風土記拾遺)。文政5年祇園社内に社倉を建造し,傍らに仙厓撰の艱穡積塵倉記の碑を建てた。元文元年523軒が焼失,宝暦11年にも360軒が焼失。幕末・維新期の商人佐野弥平は,大坂長堀川に佐野屋橋を建設,のち明治10年設立の国立第十七銀行の初代頭取となった。「甘木雑記」(元禄13年)・「甘木煙草種」(宝暦7年)・「甘木根基」(天明6年)・「甘木紀聞」(文政5年以降)などの地誌が存在する。明治初期の小名数16,戸数956・人口4,427(男2,200・女2,227),馬58・牛16,人力車1・荷車16,水車5,田93町余・畑49町余・大縄田畑10町余,物産は生蝋・蝋燭・紙・筆・藺・瓦・売薬・晒形付・花染木綿・紺絞・手拭木綿・菓子,正税は米・大豆972石余,雑税は米・大豆29石余と金162円余(地理全誌)。同年甘木小学校が設立,同9年の生徒数231(男179・女52)。同9年第7大区の調所が置かれた。同14年上座・下座・夜須3郡役所を二日町に設置。明治13年県立甘木中学が設立され,同18年に廃校,同年郡立の勉成学校が設けられ,これも同19年に廃止され,甘木高等小学校が設置された。同年甘木獣医学校設立。同22年甘木町の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438028
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ