ケータイ辞書JLogosロゴ 天生田荘(中世)


福岡県>行橋市

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。豊前国仲津郡のうち。天雨田荘とも書く。今川の対岸には豊前国府の所在した豊津があって,大宰府から東に田川郡を抜けて豊前国府にいたる古代官道の豊前道が通り,今川を下れば周防【すおう】灘・瀬戸内海にも結ばれる交通の要所であった。すぐ裏手には戦国期に何度も合戦の場となった馬ケ岳の城山がある。当初は80町と見え(本間文書/中世九州の政治社会構造),中世末期には65町と見える。延慶3年には天雨田公文次郎兵衛尉憲行という人物の名が見える。天雨田公文職は憲行から行政(ともに氏族名は不明)を経て,元応2年には安東鶴益丸へ譲られた(同前)。安東氏は北条得宗家(嫡流)の被官で,この背後には交通の要所を得宗領として集積していた北条氏の動きがあったと思われる。北条氏滅亡後は,足利将軍家の管轄下に入ったと推測され,暦応2年鎮西管領一色範氏に「鎮西料所」として与えられた(祇園執行日記紙背文書/南北朝遺1481)。一色氏は当荘を直轄地として領有し,鎮西管領を辞め九州を去ったのちも代々家領として伝領した(本間文書/大日料8‐12)。公文職については,引き続いて安東氏が任ぜられ(同前/同前7‐5),文明12年には,一色義直より豊前守護大内政弘へ,前年と当年の年貢米未到のため安東俊国に督促するよう請求がなされた。政弘は正税(年貢米)運送の残りを余得として給恩することとし,その旨俊国に伝えた。これにより,当荘が守護請であり,安東氏は大内氏の被官化していたことがわかる。なお,安東氏の大内被官化は康暦年間までさかのぼることができ,弘治3年大内氏の滅亡後は,安東氏は大友氏に従い,その配下にあって当荘の安堵をうけている(本間文書)。その他,戦国期の当地には豊後国東の奈多社領も存在した。永禄4年正月8日付で奈多鑑基が泥谷亀徳に「仲津郡内当社領天生田之内三町」を預け置いている(泥谷文書/大友史料21)。また,永禄5年4月18日付の津崎薫勝目安状によれば,永禄4年11月6日「天生田,国分寺原」あたりで大友方と毛利方の合戦があった(津崎文書/同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438051
最終更新日:2009-03-01




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