ケータイ辞書JLogosロゴ 荒木村(中世)


福岡県>久留米市

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。三潴郡三潴荘のうち。弘安4年6月23日の尼めうしやう譲状(近藤文書/鎌遺14348)に「ミぬまの御しやうあらきのむらなかとみのミみやう」とある。永仁4年12月の玉垂宮大善寺神事注文写(隈文書/鎌遺19238)によると,荒木村は三潴郡東郷に属し,三潴荘鎮守玉垂宮の五月会において村田楽の鼓,相撲人を出し,九月会䉼田1町があり,祭料米1石2斗,小社御供所3間などを負担していた。これらの神役は貞和3年9月においてもほぼ同じである(御船文書/南北朝遺2372)。同年同月の玉垂宮大善寺免田注文写(同前/同前2371)によると,荒木村に玉垂宮定額田寺家知行分2町,舞人給3反,寺家当知行の三昧田3町,正月7日修正免1町があった。永仁5年10月めうしやうの子荒木宗心は嫡男むねすみ,次男むねよし,女子あやのの御前らに荒木村田地などを分け与えた(近藤文書/鎌遺19488)。乾元2年2月沙弥そうかい(むねすみ)は実子がないので,幼児の時から養女とした姪今鬼御前に荒木村の内中富名の田地などを譲り,徳治3年3月には沙弥道盛は亡妻妙阿の相伝所領である荒木村内の屋敷,田地3反などを同じく今鬼御前に譲っている(同前/同前23202)。正和2年2月9日の鎮西探題召文御教書および同年12月18日の藤原某施行状(三潴荘史料)によると,肥前竜造寺村の竜造寺家実は荒木村地頭職を祖父家益の遺領と主張している。建武4年3月「荒木一分地頭」の荒木崇戒女子大江氏(今鬼御前か)代官荒木家有は筑後国府栗屋口辻固の軍忠をし,貞和4年10月・11月石垣寺,野伏合戦などいずれも幕府方として行動している。同6年11月荒木家益は荒木村内富永名田畠屋敷地頭職を足利直冬から安堵され,12月には同じ地頭職が荒木宗戒女子に安堵されている(同前)。年月を欠くが貞和年間頃かと推定される三潴荘内所領坪付注文(詫摩文書/南北朝遺2662)に与安八郎,北郷四郎兵衛尉がそれぞれ荒木内西方半分5町4反を領有していることを記している。康暦元年閏4月頼員は吉岡将監入道に荒木村富永名内の地を庶子分として与えたが,応永16年12月浄幸田地質券(近藤文書/大日料7‐13)によると,この富永名の文書が吉岡民部から荒木村の近藤道泉の所に1石5斗の質券に入れられている。明応5年12月近藤次郎三郎に荒木の内で2町,近藤仲七郎に同じく1町が与えられている。この頃の荒木村坪付注進状に29町9反1丈中と見える(同前/三潴荘史料)。天正6年3月の筑後国領主付に荒木氏居城三潴郡荒木村とある。同10年2月肥前の竜造寺政家は家臣の後藤晴明に荒木村の内10町を与えた(後藤文書/佐賀県史料集成6)。同12年4月豊後の大友義統は筑後長岩の問註所統景に荒木村30町を与え,7月統景隠居の後子息統康に荒木村の地などを安堵した(問註所文書/大日料11‐5,7)。なお,文禄4年12月豊臣秀吉が立花宗茂領として確定した所領中に「弐千参百九拾四石四斗壱升 あらき村」(立花文書/県史資料4)と見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438064
最終更新日:2009-03-01




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