ケータイ辞書JLogosロゴ 新津村(近世)


福岡県>苅田町

 江戸期〜明治22年の村名。京都郡のうち。小倉藩領。新津手永に属す。村高は,「正保国絵図」710石余,「元禄国絵図」695石余,「天保郷帳」1,184石余,「旧高旧領」803石余。元和8年の家数133・人数246(男125・女121),牛24・馬8,坊主・神主がいた(人畜改帳)。新津手永の大庄屋が居住した。幕末期に当村の東部街道沿いの地を下新津村として分村。享保飢饉の餓死者は185人(開善寺過去帳)。字恩塚の大原八幡神社(祭神八幡三神・大原足尼命)は,社伝では豊国々造大原足尼命を祀るとも,豊後日田の大原八幡神社を勧請ともある。天保8年の飢饉の時,社前で新津手永各村庄屋ほか157人が粥施行を行った記録が残る。字妙見に大祖大神社,字寺屋敷には浄土宗鎮西派清林寺があり,正徳年間の記録では寺格は藩主御目見以上と見え,享保飢饉の新津手永の餓死者1,879人(男1,062・女817)の墓・過去帳がある。字井上屋敷の真宗大谷派真念寺は明応7年井上順誓の開基と伝え,もと法光寺と称し,一時田川郡の法光寺と並立していたが,慶長10年真念寺と改称したという(昭和41年行橋市へ移転)。幕末下新津を分村。慶応2年9月3日豊長戦争の激化に伴い藩の野戦病院が置かれた。明治3年の戸数86・人口402(男201・女201)。同7年の地租改正に際して二崎村を分村(京都郡誌)。同18年の地積は田64町余・畑20町余・宅地5町余(同前)。同22年小波瀬村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438079
最終更新日:2009-03-01




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