ケータイ辞書JLogosロゴ 有木(中世)


福岡県>宮田町

 鎌倉期から見える地名。鞍手郡のうち。弘安8年3月日の筑前水原若宮社村々相撲次第の7番に,「小河,有木」があり,若宮八幡社で行われていた村々相撲に有木が出仕していた(筑前町村書上帳/鎌遺15497)。次いで,正中2年4月5日,「造宇佐宮所□(課)事」に関する高野山金剛三昧院領筑前国粥田庄雑掌種春と在庁成藤等との相論に対する鎮西探題下知状には,「如建久図田者,筑前国鞍手郡惣田数千五百八十肆丁参段内……庄領内粥田庄者,本庄八拾町,加納陸百余町也,加納内有木五十丁,野母八十丁,盛田六十町,楠橋弐百余町,以上参百□(九)十丁也」とある。これから,有木が粥田荘内に含まれていたこと,建久の図田帳では50町であったことが知られる。また粥田荘雑掌種春は当地が粥田荘の加納田として成立したと申し立てている(金剛三昧院文書/高野山文書2)。次いで,応永16年4月14日,宗像氏経編纂の宗像社家文書総目録からは,「在木」などに関する建武元年3月20日付の雑訴決断所牒があったことがわかる(宗像郡誌中巻)。その後,明応9年4月5日,宗像氏佐が書写した宗像社領注文にも有木村が見えている(余瀬文書/大分県史料25)。戦国期に入って,天正6年6月1日,宗像神社辺津宮本殿再興の際記載された第一宮御宝殿御棟上之事置札のうち「御領中人夫之事」に,「山口郷・宮永村・稲光村・在木村・室木村・宮田郷・長江津留」が一手に編成されており,社領として社役を課せられていた(神道大系神社編宗像)。なお,天正年間の「指出前之帳」によれば,有木村の地積・分米は田71町余・645石余,畠10町余・47石余,合計82町余・692石余とある。江戸期には上有木村・下有木村となり,現在の宮田町上有木・下有木付近に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438112
最終更新日:2009-03-01




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