ケータイ辞書JLogosロゴ 生葉荘(中世)


福岡県>吉井町

 鎌倉期〜南北朝期に見える荘園名。生葉郡のうち。「吾妻鏡」寛元2年7月16日条に,筑後国御家人吉井四郎長広と同御家人矢部直澄が「生葉庄内得安名」の屋敷田畠などのことで相論し,幕府で評定したと見える。得安名の比定地は不明だが,両者は名前から考えて,吉井と屋部を各々根拠地としていたと思われる。中世の生葉荘は,院政期に成立した皇室御領であったため,承久の乱後その管理権をめぐって在地御家人が争っていたものと考えられる。文永6年8月21日の東市正某奉書によると,生葉荘と宅間荘(讃岐国)からの年貢運上の時は毎年石別2升分を「割分」して,摂津勝尾寺(現大阪府箕面市)に送り千手供・荒神供などにあてることとある(勝尾寺文書/鎌遺10477)。この頃の生葉荘は山門末寺の勝尾寺に信仰を寄せる皇族を領主としていた。年未詳2月5日の西市正資高書状にも,皇室領の山前荘(近江国)や河越荘(武蔵国)などとともに生葉荘の名があり(兼仲卿記建治元年11月巻裏文書/鎌遺12140),正安4年の室町院御領目録によって,生葉荘が後堀河天皇第1皇女の室町院領になっていたことが確認できる(御料地志稿)。建長元年に式乾門院(利子内親王)が,一期の後は中書王(宗尊親王)に譲るとの条件で,姪の室町院に譲与したものである。しかし南北朝期になると,生葉荘は再三にわたって戦火に荒らされた。暦応3年から九州探題一色道猷が筑後にこもる少弐頼尚・菊池武敏らに攻撃をかけると,同年10月日の山代亀王丸軍忠状に「生葉庄山責合戦」,康永3年6月2日の一色道猷軍勢催促状には「生葉庄凶徒誅伐事」などと見える(山代文書/南北朝遺1595,深堀文書/同前2017)。その間に領主権は豊後の守護大友氏に移った。将軍足利義詮は延文4年12月15日,大友氏時に少弐頼尚とともに懐良親王・菊池武光を誅伐すべき旨の御教書を下し,恩賞として菊池氏の所領や生葉荘の地頭職を宛行った(大友文書/大日料6‐22)。生葉地方が宮方の一拠点であったことから,武家方大友氏時の支配を期待したものと考えられるが,実際は思うにまかせず,康暦元年5月2日足利義満は大友親世に勲功の賞として生葉荘の替地に筑前・肥後・肥前の地を与えた(立花家蔵大友文書/大友史料8)。大友親世が田北氏直に,肥後国味木荘内の秋永村の代りに生葉荘内の7町分を預けたのはそれ以前のことと思われる(田北文書/同前)。なお,吉井町福益の熊野神社に,天正18年の上梁銘文があり,「筑後国生葉荘熊上八幡大菩薩」と見えている(太宰管内志)。また,応安8年正月日の山内通忠軍忠状には「打入生葉村」と見えるが,生葉村が,生葉荘の別称であったか荘内の村名であったかは明確でない(山内首藤家文書/大日古)。生葉荘は現在の吉井町福益あたりを中心とした地域に発達していたと考えられる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438172
最終更新日:2009-03-01




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