ケータイ辞書JLogosロゴ 石垣(中世)


福岡県>田主丸町

 鎌倉期から見える地名。筑後国竹野郡のうち。法然上人行状画図に「石垣の金光坊」なる僧侶名がある(大日料4‐11)。金光は,天永3年の銅製経筒(妙法蓮華経全巻を内蔵)が発掘された石垣観音寺の中興の祖で,法然の愛弟子にあたる。建武5年正月南朝方の武藤資時・菊池武重が兵を率いて筑後に入り,弟菊池武敏のこもる石垣城に会すると,同年4月3日鎮西管領一色道猷はこれを攻めた。同18日の詫磨貞政軍忠状に「石垣山合戦」,暦応3年10月日の佐志披軍忠状には「石垣山〈号高鳥〉合戦」などと見えるので(詫摩文書・東京大学文学部所蔵斑島文書/南北朝遺1168・1594),山城をめぐる攻防とわかる。貞和5年6月日の荒木家有の軍忠状によれば,「石垣寺」が戦場となっているが(近藤文書/県史資料10),石垣寺本坊は健在であったのか,応永2年6月1日田原親貞は出陣に際し,足利義満自筆の安堵状などを皮籠に入れて「石垣本防(坊)」へ預けおくよう一族の者に言い残している(草野忠右衛門氏家蔵田原文書/大友史料9)。なお,天正18年1月24日参宮帳に,「いしかき山」住人の名が見えるが(後藤氏所蔵文書/大分県史料25),宇佐宮領豊後石垣荘との区別上,「山」をつけて書かれたものであろう。また,文禄4年12月1日豊臣秀吉は朱印状をもって林宗重に「石垣村内三百五拾石」の領知を認めた(萩藩閥閲録66)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438207
最終更新日:2009-03-01




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