ケータイ辞書JLogosロゴ 糸田荘(中世)


福岡県>糸田町

 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。豊前国田川郡のうち。建久の「豊前国図田帳写」に「糸田庄百五十町」と見え(到津文書/鎌遺926),弥勒寺喜多院所領注進状では「糸田庄百三十丁」とある(石清水文書2/大日古)。宇佐弥勒寺領であったが,その上級領主権は中世を通じて複雑に推移した。鎌倉初期には石清水八幡宮領として見え,承久2年12月の検校祐清譲状中の女々御前分に「草野庄〈弥勒寺領〉糸田庄〈同〉」とある(同前1/同前)。南北朝期には至徳元年11月3日の太政官牒に鹿王院領として「豊前国田河郡内田原村・糸田庄」とあるが(鹿王院文書),その後,南朝元中3年2月2日には入道従一位準大臣某が「糸田庄地頭職半分」等を養子伯耆長栄に譲与している(日名子太郎氏旧蔵文書/大友史料8)。室町期に入ると興福寺別院竜華樹院領として見え,文安5年8月大内氏が「竜華樹院領糸田庄五十丁」の返付を豊前守護代杉備中守に命じている。文明2年3月には「竜華樹院御領豊前国田川郡之内糸田,田原両庄」を大友氏の被官長野左近将監が年300貫で請け負っているが,この時の補任状によれば,当荘は平安後期の承保年間に白河上皇の寄進を受けて以来,竜華樹院領であったとしている(大乗院寺社雑事記)。その後,文明4年2月10日条に「糸田・田原」,同6年正月11日条に「豊前国糸田・田原庄」などと見えるが,同院の領主権は動揺しており,文明10年5月28日には足利義政が「豊前国糸田并田原」を竜華樹院に返付している(南禅寺文書)。この間,宇佐宮に対しては,鎌倉後期に覆勘饗膳料米5石7斗を負担している史料があり,至徳4年10月20日付宇佐宮御炊殿竪柱上棟作法目録,明徳元年正月吉日付の条々事書等では,柱立の際,当荘から米12石・大豆3斗・小豆3斗・油3升・こも9枚・莚3枚・絹3疋・白布9端・くわし5枚その他御菜・紙・手松・銅鍋・釘など雑多な品を納入する定めとされている(到津文書・永弘文書/大分県史1・3)。なお,戦国期には糸田左馬允正真の名が見える(応永戦覧)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438343
最終更新日:2009-03-01




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