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糸田村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
糸田村(近世) 江戸期~明治8年の村名牟婁【むろ】郡のうち稲成【いなり】川が左会津川に合流する沖積平野に位置する井佐田村とも称した地名は,磯田の転音であるという(続風土記)和歌山藩田辺領城付田辺組に所属村高は,慶長検地高目録では「井佐田村」と見え388石余,ほかに小物成1斗余,「天保郷帳」「旧高旧領」では432石余なお慶長6年の浅野左衛門佐殿知行持高写には糸田・尾崎【おのさき】村426石余とある(万代記)寛永17年の御国廻御通村々書上では村高426石余,家数29軒・人数87(同前)安永2年の大指出書上帳によれば,糸田村・尾ノ崎村として村高426石余,家数36軒・人数177,田21町歩・畑1町7反,作物は米・麦・大豆・小豆・大根・綿など,百姓の農間稼ぎには鍛冶・船手・日用があった(田所家文書)鍛冶は慶安2年には6戸で糸田村家数の37%を占めていた(万代記)安政6年の家数人数牛馬数書上帳では牛22(田所家文書)「続風土記」によれば,「伊作田【いさいだ】村と人家入交れり」と見え,家数40軒・人数229,小名尾ノ崎は,土地は西ノ谷村領で人家のみ糸田村に所属しており,神社は伊作田村の稲荷大明神社を産土神とする明治2年の田辺組戸数調では並百姓33軒・難渋者11軒(田辺要史)同4年田辺県を経て和歌山県に所属同6年には戸数61,男137・女143同8年稲成村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」