ケータイ辞書JLogosロゴ 今井村(近世)


福岡県>行橋市

 江戸期〜明治22年の村名。豊前国仲津郡のうち。小倉藩領。平島手永に属す。「人畜改帳」では今居村と見える。村高は,「正保国絵図」625石余,「元禄国絵図」840石余,「天保郷帳」1,066石余,「旧高旧領」1,207石余。元和8年の家数245・人数601(男325・女276),牛12・馬23,鍛冶・坊主・神主・商人・仏師・念仏申がいた(人畜改帳)。享保飢饉の餓死者は623人(開善寺過去帳)。鎮守は,字浦に熊野神社,字中州に北山大神社,字東に菅原神社,字西に浅間神社,字西浦に貴船社,字市場に貴船神社,字文久に海神社がある。寺院は,字守田に真宗大谷派守田山雲竜院浄喜寺があり,寺伝によると,村上良成は豊前国仲津郡を領していたが,本願寺蓮如上人の直弟子となり得度,蓮如自筆の寺号を授かり,明応4年開基。小倉藩主細川忠興は3世良慶に帰依し寺領300石を寄進。藩主が小笠原氏に代わっても浄喜寺への寄進は続き,開基以来,豊前六郡の触頭。慶応2年2月10日,16世良春は僧兵百数十余人と沓尾・蓑島に出兵(豊国戦記)。文化14年本堂再建。字東に真宗大谷派宝林坊があり,正保4年の創建。もと浄喜寺境内にあり,明治12年現在地に移る。字市場に真宗大谷派善得寺があり,元亀3年村上良心開基。字市場に浄土宗鎮西派西福寺があり,天徳2年の創建ではじめ素呂院と称し,天文年間に現在地に移り西福寺と改称。字西に浄土宗鎮西派観通寺,字中須に浄土宗鎮西派光福寺があった。仏堂は,字東に三明院,字市場に庭松庵(善徳寺支坊)。伊能忠敬は当村を測量し,日記の文化7年1月20日の条に「今井川(祓川のこと)幅五十間」(測量日記)とある。清兵衛新開は,天明8年真菰村奥清兵衛が10町余を干拓。平井新地は,藩命で平井某が采配し,文久年間以前に総面積12町余,うち田11町余・畑1町余を干拓。文久新地は,藩が文久2年62町余を干拓完成(京都郡誌・文久のあゆみ)。明治3年の戸数169・人口798(男416・女382)。学校は,明治初年に豊津育徳館今井支館設立,教官4名,生徒数91。漢学と手跡を教授。小学校は,明治5年育英小学校創立,校舎は旧藩の社倉を充て,教員5,生徒数89(男82・女7),同8年校舎新築,生徒数193(男151・女42),同13年長井分校設立(県教育百年史・京都郡誌)。同22年今元村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438426
最終更新日:2009-03-01




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