ケータイ辞書JLogosロゴ 妹川村(近世)


福岡県>浮羽町

 江戸期〜明治22年の村名。生葉郡のうち。はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領。江戸前期には樋口越前が200石を知行。石井組に属す。村高は,「元禄国絵図」123石余,「在方諸覚書」の古高200石,「天保郷帳」178石余,「旧高旧領」368石余。宝暦年間頃の役高は285石(在方諸覚書)。十三か山の1つとして山中出産の品々(椎茸・木耳・山芋・蕨など)と紙運上5束・漆運上126匁を上納(啓忘録抜萃)。文化4年の田25町余,畑田4町余・畑5町余(農政農民史料集)。嘉永年間頃には戸数26・馬20・名頭2の藤波名を筆頭に,戸数20〜10の名が4,同9以下の名が14,名頭が計6あげられる(廻村書留)。享保年間に藤波名の鑓水九左衛門は,耳納山麓から藤波に通ずる千間の鴻溝を穿ち水利灌漑の便を図り,また原口村,山北村間の原野大野原に櫨5,000本を植樹し,藩の御立櫨山となる(浮羽郡案内)。慶応3年山中御印筒改めがあり,妹川・田籠両村より山筒の者80名が大庄屋宅へ出張,若宮で5発ずつ試射した(筑後)。明治6年戸長下川松吾は樫ケ手に明善小学校,持木に進善小学校を開設(久留米人物誌)。「筑後」には,同7年藤波名・持木名の有志が学校開設を協議し,この年は民家を借り,翌年に2間に3間半の校舎を新築と記す。妹川村惣産神社として虫留メ・風留メ・五穀成就を祈祷した大祇宮,御手洗山神をはじめとする山神4・観音4・天神3などがある(寛延記)。明治17年の戸数177・人口1,051(県史料叢書)。同22年姫治村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438489
最終更新日:2009-03-01




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