ケータイ辞書JLogosロゴ 岩門荘(中世)


福岡県>那珂川町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。筑前国那珂郡のうち。正安2年3月3日,「岩門郷別所毘沙門寺院主職・同免田在家」等が肥前国背振山水上本坊の法橋長印より大進房栄印と文珠丸に譲与され,栄印他界後は文珠丸が,文珠丸一期の後は宝寿丸が譲り受けることが決められている(修学院文書/鎌遺20388)。この岩門郷別所は,現在の那珂川町別所の地に比定される。弘安7・8年頃の関東評定事書(近衛家本追加/同前15365)によると,九州官軍のため岩門と大宰府に城郭を構えるように鎌倉幕府から指令が出されており,当地は大宰府とともに軍事上の要衝であった。弘安8年11月の霜月騒動の余波として,少弐氏惣領経資とその弟景資との間に当地を舞台としていわゆる岩門合戦がおこり,景資はじめ多くの御家人が戦死したが,戦後当地は多数の御家人に配分給与されている。弘安9年閏12月28日の関東式目(比志島文書/同前16130)によると,金田時通跡の「那珂東郷岩門」は,斑島・相神家弘・佐伯政秀・多比良尊聖・塞永(寒水)井源三郎・青木頼平・三原種能・八楽(尋)重俊・打橋泰幸・古飯三郎兵衛入道ら10人の御家人に均等に配分されたことがわかる。なお斑島の「岩門拾分壱〈金田六郎左衛門跡〉」は,弘安9年10月29日にすでに宛行われていた(有浦文書/同前16015)。当地は岩門合戦以前は金田氏の所領であったが,金田時通が同合戦で景資方について滅亡したため,その所領が幕府に没収され,恩賞地の対象となったとみられる。南北朝期になってもこのときの配分給与地が武士の所領として伝えられている。貞和5年閏6月26日,一色道猷は「岩門郷勲功人拾人内」の斑島納の知行分中原名と元弘以降新田を「惣郷給人之法」に任せて安堵している(同前/南北朝遺2607)。足利直冬が九州に西下して,勢力強大化すると,翌貞治6年12月には,斑島納の申請によって足利直冬より岩門郷中原田地・屋敷等が安堵され(斑島文書/同前2951),翌観応2年11月にも松浦一族は,連署して斑島納の所領岩門郷中原などの安堵を足利直冬に申請している(有浦文書/同前3263)。この岩門郷中原は当町中原の地に比定される。延文5年閏4月13日に斑島行法(納)から孫四郎厚に中原名が譲与されている(同前/大日料6-23)。その後斑島氏の所領である当名は,史料的所見がなく,この時期に断絶したと考えられる。観応3年2月書写の安楽寺領注進目録(太宰府天満宮文書/天満宮史料11)によると,当郷は安楽寺の十一面供料所となっており,南北朝期において安楽寺領であった。南北朝末期の永和5年,幕府方の熊谷直忍は岩門城に籠ったが,敵方の「ハマ山彦次郎」が攻め寄せて来たので,岩門荘南面里において合戦に及んでいる(熊谷家文書/大日古)。この岩門荘南面里は,現在の那珂川町南面里に比定されるが,このころ岩門郷が岩門荘と呼称されるようになったのであろう。応永7年3月11日に宗澄国から島山次郎に預け置かれた「岩門郷内徳王丸」の1丁4反余は,同年6月29日の宗隆国の書下案によると,「岩戸庄得王丸名」と記されている(馬廻御判物帳/長崎県史史料編1)から,この時期,岩門郷と岩門荘が同一のものに扱われていたらしい。九州探題渋川満頼が岩門内の1名を筥崎宮に寄進したところ,京都(室町幕府)よりその取り消しを命令してきたので,応永10年10月17日,筥崎宮の神官供僧らがこれを愁訴している(田村文書/大日料7-6)。嘉吉元年12月20日,少弐教頼が肥前光勝寺(佐賀県小城町)に岩門荘光吉名18町を安堵し(光勝寺文書/佐賀県史料集成5),応仁3年6月4日,少弐頼忠は対馬の古川山城守の所領岩戸荘内40町などを安堵している(馬廻御判物帳/長崎県史史料編1)。このころ岩門荘内の井浜は九州探題領すなわち渋川氏の所領であったが,文明元年に九州において東軍が蜂起すると,探題が没落したため闕所化している(野辺文書/鹿児島史料拾遺)。岩門荘の呼称は,戦国期の天文2年8月にも見える(思文閣墨跡資料目録15)。戦国期,当荘(郷)は軍事上の要衝として見える。文明10年10月,大内氏による少弐氏残党討伐の際,「岩門者共」が動員され(正任記/大日料8-10),また少弐政資の筑前討ち入りに際して政資は大内方の岩門・亀屋両城の水止めをして攻略しようとし,ついで明応5年の少弐政資の筑前入国の時にも大内氏家臣長岡盛実が翌6年5月から岩門城督遠田治部丞とともに岩門城に在城している(萩藩閥閲録/博多史料3)。さらに永正10年8月2日,武藤次郎が大内義興より数年の岩戸在城を賞せられている。そのときの岩門城督は麻生家明であったらしい。戦国期の前半,当地は筑前守護大内氏の軍事的拠点であった。大内氏の滅亡後,毛利氏が筑前に進出し,大友氏と対峙した。永禄11年,大友宗麟は豊後日田に在陣し,その部将臼杵鑑速・戸次鑑連・吉弘鑑理率いる数千騎は岩戸荘に在陣したという(宗像第一宮御宝殿置札/神道大系神社編宗像)。翌12年5月27日の岩門表の合戦で筑紫鎮恒は大友方に属し,その親類・被官は戦死している(島津家文書3/大日古)。同年9月13日,大友宗麟は大内輝弘の周防進撃をたすけて五条鎮定・蒲池鑑広・野上治部少輔・田北鑑忠らを派遣し,宗麟自身,岩戸まで差し寄せると述べている(大友家文書録/大分県史料32)。同年10月,毛利元就が筑前立花城在城中の吉川元春・小早川隆景らを召還した直後,宗麟はすかさず岩戸表まで出兵し,配下の国人らに下知している(同前)。戦国期の後半,当地は大友氏の重要な軍事的拠点であった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438528
最終更新日:2009-03-01




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