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「魚町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

魚町(近世~近代)


江戸期~現在の町名江戸期は小倉城下の1町小倉城の東,紫川と砂津川の間に位置し,町並みは南北に延びる北は米町,南は紫川に注ぐ神岳【かんたけ】川,東は鳥町,西は大坂...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7438568]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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魚町(近世~近代)

江戸期~現在の町名明治初年から明治22年まで豊橋を冠称江戸期は吉田城下二十四町の1つで,裏町のうち吉田城の南西に位置し,町並みは東西に続き,北は札木町,東は元鍛冶町,西は御輿休町に接する吉田宿伝馬役は平役町として人足役を課され,貞享元年には本門120軒のうち役門116軒で,出人足102人を負担した同5年の家数127,町並み215間,道幅2間3尺正徳2年の吉田惣町差出帳によれば,家数114・人数800,庄屋は仁兵衛寛延3年の吉田弐拾四町指出帳では家数119・人数608同年の吉田弐拾四町指出帳書抜では,高61石余,出火時出役人足60,町医者1・座頭1・大工1・紺屋2・桶屋1・彫物師1・仕立物師1・傘屋2・造酒屋1,庄屋は十三郎,出水時吉田大橋へ人足を出役(豊橋市史)安永8年の宗淳火事で類焼魚市場は今川義元の東三河領有時代から熊野権現社の境内で開かれていたと伝え,元禄年間には吉田藩主小笠原長重が魚市場を保護するため,市場以外の直売買の禁止を布令し,船町・花ケ崎・魚町に監視員各1名を配置しかし,明和~天明年間に浜方で不漁が続き,魚の直売買が横行したため,藩は寛政11年魚問屋・魚仲買の独占権を認める定を下し,文政2年からは従来の運上金に加えて冥加永1貫文を課した文政2年の家数124,天保9年の家数125弘化3年遠州灘沿岸の諸村と魚捌方規定書を交わす(同前)嘉永3年鰯荷物に端を発し,同4年から安政4年まで前芝村・牟呂村を相手に魚争論が発生神社は,熊野権現社明治維新後,魚市場は特権を失い中絶したが,明治9年上浜屋清兵衛らが魚問屋を復興し,同10年豊橋魚問屋,同12年豊橋魚鳥株式会社と改称明治10年の地価取調帳では面積8,728坪余・地価7,560円余同22年豊橋町,同39年からは豊橋市に所属同41年丸仲魚問屋が開業し,豊橋魚鳥と激しい魚荷の争奪を展開したが,大正2年に両社と関屋町の豊橋海産の3社が合併して豊橋魚市場となった昭和13年には豊橋織物雑貨卸商組合・豊橋蒲鉾竹輪製造業組合・豊橋魚商仲買組合・東三有価証券仲買人組合の事務所があった(豊橋商工案内)同33年清水町・紺屋町・札木町・本町・神明町・花園町・三浦町・新銭町の各一部を編入し,一部が大手町・札木町・花園町・新本町となる同41年魚市場が下五井町へ移転

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚町(近世~近代)
江戸期~昭和47年の町名江戸期は津城下の1町町人地城の東側に位置し,北は蔵町に接する元禄年間に浜魚町が魚町・北浜町・南浜町・片浜町の4町に分かれて成立地名の由来は,元和5年に開削された堀川の近くに水夫・漁師が集住し,漁業を浜町に行わせ,魚問屋を当町に置いたことにちなむ藩の舟手の夫役や難破船救護などの浜役を課せられる元禄5年には,魚問屋9軒,仲買頭・仲買48軒がある問屋の年間売上高は1万両を超えたという(津市史)明治4年には,他の町の者も加入した魚商会が開設されたが,同6年には解散した戸数は明治5年61,同17年61同22年津市に所属同26年の市内有力問屋・海産物商14人のうち11人が当町に居住(県下商工人名録)大正元年には津魚市場が設立された昭和12年頃の町内には仲買24人・魚商14人がいた(県の聚落景観)昭和20年7月の空襲で町は焼失し,第2次大戦後の復興後は大門商店街に隣接する商店街・住宅街となる魚市場は昭和21年頃乙部へ移転町の南部は市道津港河辺線(フェニックス通り)で分断された世帯数・人口は,昭和36年34・124,同44年35・110同47年フェニックス通り以北は大門,以南は東丸之内の各一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は倉吉陣屋町の1町陣屋町の中央部,玉川の沿岸に位置し,南は武家屋敷地(葵町),東は横町と接する町名の由来は,魚介物を扱う商人が多かったことによると伝える寛延年間の倉吉御陣屋図によると竈数56・間数150間余明治初年の戸数64・人口237(県戸口帳)元禄8年・寛延3年の大火で焼失有力町人が居住した地であり,木綿問屋山城屋(桑田家)・清谷屋(船木家)などは京・大坂の問屋へ荷送りをした天保5年の久原山口両御番所出入荷物改帳控によると,岡崎屋治兵衛が塩鯺12個,小石屋長兵衛が稲扱き16個(192挺)・釘24個,清谷屋甚兵衛が木綿710個(5万5,500反)・釘15個・伊手【いたら】貝干身30個,田中屋弥兵衛が釘21個を出荷し,吉田屋長兵衛が紙雛24個,山屋徳兵衛が同19個を入荷している玉川沿いには江戸期から明治期にかけて白壁土蔵群があった明治22年倉吉町,昭和28年からは倉吉市に所属世帯数・人口は,同35年65・294,同55年52・148...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚町(近世~近代)
江戸期~昭和39年の町名江戸期は福岡城下の1町福岡城の北東に位置し,町並みは本町と大工町との間に南北に連なる町名は,魚店があったことに由来する元禄3年の家数36(続風土記)文化3年家数30・人数119,間数75間余(文化9年福岡・博多地図)元文5年,六町筋にあった魚・鳥・野菜の店は魚町または万町に移るように命じられ,またこの頃相物(海産物)問屋仲間があった(福岡藩町役所記録)町内に恵比須神社があった町は南北1町29間,東西26間明治11年福岡区に所属同12年の戸数48・人口216(男107・女109),民業は工3戸・商27戸・雑3(福岡区地誌)同22年福岡市の町名となる同23年の戸数43・人口214大正末期,地内に私立川島裁縫女学校(現川島女子専門学校)が移転(福岡町名散歩)昭和39年舞鶴1~3丁目・大手門1~3丁目・赤坂1~2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚町(近世~近代)
江戸期~現在の通称地名津和野城下五か村の1つ後田【うしろだ】村のうち魚町・下魚町に分かれている寛永年間,津和野藩主の命により魚市場問屋が開設され,以後江戸を通じて発展「七浦たずねて魚なくば津和野へ行け」というほどの発展をみせた明治期には民間の魚市場が開設,第2次大戦で物資の統制が行われるまで栄えた現在では旅館・料理屋が並び,下魚町は住宅街となっている...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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