ケータイ辞書JLogosロゴ 碓井封(古代〜


福岡県>碓井町

 平安期〜南北朝期に見える封名。長和3年2月19日の筑前国符案(尊勝院文書/平遺476)によると,長保6年観世音寺は大宰府に対して,封戸田が散在し,一円化していないために,筑前国の検田使が四至内に入勘して煩いがあるので,公田と寺領田を相博して一円化し,新たに四至を立てて大宰府や国の検田使の入勘を停止するよう申請し,長和3年にこれを認められている。この時点で観世音寺は国・郡司を介することなく,直接碓井封を支配しており,不入権まで獲得して碓井封は荘園と均質化している。その後も水の便を尋ねて開発が進み,治安4年国使入勘の時,これらの勘出田地17町120歩は公田とされたので,観世音寺は寺田との交換を願い出て認められ(尊勝院文書/平遺498),さらに一円化を進めている。観世音寺が碓井封の封田の一円化を進め,筑前国衙との間で公田の勘出をめぐって争いが見られるのは,その基底において,田堵による新開発,あるいは荒廃田の再開発が進んでいたためと思われる。延久元年2月寛徳2年以後の新立荘園の停止や諸荘園の所在領主,田畠惣数の注進等を命じた延久の荘園整理令が出され,碓井封では府・国使,観世音寺使が見作・荒田を勘録して注進している(東大寺文書/平遺1039)。それによると公験に定められた当封田は151町4反282歩で,見作田86町7反・荒田64町7反203歩からなっている。ただし勘出田は除外され,治安4年に交換された田地は含まれていないようである。これら封田の内部構成については不明である。永長2年6月には山口村に関して観世音寺と安楽寺の間で相論が展開されている(根岸文書/平遺1375)。よって碓井封内は諸村から構成されていたことがうかがわれる。観世音寺側の主張によると,山口村は碓井封内であるが,前々別当安覚が安楽寺の氏人であり,別当をやめた後天満宮寺(安楽寺)に寄進した。前別当隆昭は安楽寺別当の弟子であるのではばかって,なにもせず,現別当になって大宰府に訴えたとある。安楽寺側によると山口村は天満宮領であり,桑手苧等を究済してきたのが碓井封の田堵であり,観世音寺に心を寄せて,寺使に狼藉をしていると主張している。こうした中で,同年6月26日山口村住人物上末貞・伴国元・三宅光任・僧寂禅の4名は安楽寺使が当郷封内に乱入し,人間2人と馬2疋を押し取ったとして訴えている。彼らは有力田堵であろう。翌承徳2年3月末には安楽寺権勾当とその随身土師荘司等が山口村住人越智正道宅に乱入し,女1人をからめとり,男1人を追捕したとして観世音寺が大宰府に訴え,相論がなされている。以上は一連の根岸文書による(嘉穂地方史古代中世編)。こうした観世音寺と安楽寺の相論の背景には碓井封に近接して安楽寺領土師荘があり,両者の間に出作をはじめとする密接な関係があったことが考えられる。保安元年以前に観世音寺は東大寺の末寺となっており,それに伴って碓井封も東大寺領となっているが,荘務権は依然として観世音寺が持っていた。大治5年11月碓井封の年貢216石9斗が梶取時安に付して運上されている(内閣文庫所蔵観世音寺古文書/平遺2170)。その行程は碓井封から平駄(ひらた船)に積んで遠賀川を芦屋津まで下り,そこから海船に積みかえ,瀬戸内海を通って奈良まで運上されている。保延7年大宰府権帥藤原顕頼は大宰府在庁官人等に対して,観世音寺領碓井封・金生荘の加納田を勘返することを停止している(東大寺文書/平遺2444)。加納をめぐり,観世音寺と国衙・大宰府の間でやりとりがあり,また観世音寺が碓井封加納という形で寺領の拡大をはかっていたことがわかる。観世音寺領も治承・寿永の内乱の影響をうけている。観世音寺領である四封(碓井・金生・大石・山北)四荘(把伎・黒島・船越・山鹿)から東大寺に納める年貢はほぼ500〜800石であったが,治承の乱以降有名無実となったため,建久6年のころ東大寺は検注使を観世音寺領に遣わし,1,000石余の年貢のうち観世音寺に600石を置き,400石を本寺の東大寺に納めるようにしている。ところが光恵僧都が観世音寺別当となり,定誉僧都が碓井封を譲得してからは年貢を失墜せんとし,毎年6月中に東大寺に究済する旨の起請文にもかかわらず空しく期日をすぎるので,観世音寺の寺領および碓井封以下の寺領を本寺(東大寺)の別当に付されんことを寛喜3年6月29日東大寺衆徒らは請うている(東大寺文書/天満宮史料7)。これに対し観世音寺別当光恵僧都は同年10月請文を出し,未進分の年貢130石は今月中に究納し,以後は毎年年貢の外に250石を6月中に東大寺に納める旨を申している(観世音寺文書・東大寺文書/同前)。碓井荘の荘務権は観世音寺に留めおかれたようであるが東大寺にとって遠隔地にあたる碓井封の年貢確保が困難になりつつあることがうかがえる。南北朝初めに碓井封は碓井荘と称されている。建武4年になると碓井荘御年貢近年違済なしという状態となる(東大寺文書/嘉穂地方史古代中世編)。ともあれ暦応4年5月24日には「碓井封御年貢事,御米少分候」と言われながらも東大寺に納入されている(中村直勝氏所蔵文書/大日料6-6)。なお,このときの碓井梶取,乙王丸の起請文は,荘園年貢の運送や瀬戸内海海運の具体相を示す好史料であるが,年貢船2隻のうち1隻は舞州で海賊に遭い樺島沖で合戦し,他の1隻は洲江において難風にあい,湿米・売・捨米が生じたという。14世紀後半〜15世紀前半にかけて碓井資重,碓井盛資,碓井武資等の名前が確認できる(正任記・筑前町村書上帳・清末文書)。大内氏の被官人化している者もいるが,碓井を姓とするところから,碓井を本拠地とし中世後期に成長してきた土豪と考えられる。なお,天正年間の「指出前之帳」には「臼井村」と見え,田86町余・分米1,256石余,畠9町余・分大豆39石余とある。臼井村は,江戸期には上臼井村と下臼井村に分かれる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438591
最終更新日:2009-03-01




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