ケータイ辞書JLogosロゴ 内浦(中世)


福岡県>岡垣町

 南北朝期から見える地名。筑前国御牧【みまき】郡(遠賀郡)のうち。応永16年の年紀をもつ「宗像社家文書総目録」に収める乾元2年6月の宗像社領公文所注進に所領13か郷の1つに内浦の名がみえ(宗像郡誌中巻),この頃にはすでに郡境を越えて宗像社の勢力が及んでいたことが推察される。鎌倉幕府滅亡の混乱のなかで,宗像社摂社の長日御供以下の料所にあてられていた内浦等の社領は,悪党人らの濫妨狼藉をうけ,元弘3年9月17日に後醍醐天皇の綸旨を下されるもなおおさまらず,建武元年3月20日には建武政権は,雑訴決断所牒によって内浦等への狼藉を停め神用を専らにすべきことを命じた(宗像文書/南北朝遺18)。宗像社の末社の1つに若宮明神が内浦にあったことが正平23年宗像宮年中行事にみえている(宗像郡誌中巻)。その後,戦国期の16世紀に至ると,天文22年の宗像御代寺社武家知行帳に諸寺庵55か所のうちの1つに「二町〈内浦〉海蔵寺」とみえている。永禄4年閏3月に宗像大宮司氏貞は,内浦郷30町の土地を武運長久・社家安穏を願い孔大寺権現に寄進している(編年宗像古文書/宗像郡誌中巻)。天正3年11月に大宮司氏貞は吉田彦三郎に対し,父の知行の相続を安堵しているが,同時に出されたと考えられる年時を欠く同日付の文書では,同人に対し,内浦郷并白浜代官職について諸公役は前記の通り沙汰すべきことを命じており,これらの地が大宮司支配下にあったことが知られる(新撰宗像記考証/同前)。天正10年10月28日には内浦郷より土貢米13石8斗・田作米2石5斗8升5合・用米2石2斗1升4合を出すべく注進されている(宗像神社文書及宗像大宮司関係文書/県史資料2)。なお,天正年間の「指出前之帳」によれば,内浦村の地積・分米は田21町余・347石余,畠3町余・18石余,合計25町余・366石余。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438631
最終更新日:2009-03-01




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