ケータイ辞書JLogosロゴ 馬見(中世)


福岡県>嘉穂町

 南北朝期から見える地名。嘉麻郡のうち。建武4年11月日の長野助豊軍忠状写によると,北朝方は同年10月25日南朝方の拠る馬見山等所々の城を焼払った(長野文書/南北朝遺1096)。室町期にはいると,嘉麻・穂波郡は少弐氏の知行となったようであるが(志布志都城野辺文書/嘉穂地方史古代中世編),反乱を起こした赤松満祐の追討に失敗した少弐教頼は,幕府の命を受けた大内氏らに攻撃をうける立場となり,当地においても合戦が行われ,嘉吉2年3月14日幕府は大内勢に属した平賀頼宗被官人の当地における軍忠を賞している(萩藩閥閲録124‐1)。下って戦国期,秋月文種が毛利氏に通じて大友氏に叛したため,大友氏方の佐田隆居は弘治2年6月8日千手【せんず】・馬見において秋月軍と戦っている(佐田文書/熊本県史料中世編2)。その後永禄11年,立花鑑載が大友義鎮に叛して毛利氏に援軍を請うたので,毛利元就はこれに応じて派兵するとともに馬見に要害を作ることを命じた。その様子は元就の命により九州に渡った吉川元春・小早川隆景の,佐藤又右衛門尉らにあてた永禄11年・同12年の書状からうかがえる(萩藩閥閲録108)。天正7年と思われる大友宗麟覚書には「一,馬見表之事」と記されている(田原文書/大友史料24)。なお,天正年間の「指出前之帳」には「馬見村」と見え,田66町余・分米667石余,畠16町余・分大豆86石余であった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438648
最終更新日:2009-03-01




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