ケータイ辞書JLogosロゴ 榎津町(近世)


福岡県>大川市

 江戸期〜明治22年の町名。三潴郡のうち。はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領。平野組に属す。村高は,「元禄国絵図」608石,「在方諸覚書」の古高1,030石,「天保郷帳」2,371石余,「旧高旧領」1,098石余。慶長6年榎津加賀右衛門3,250石が榎津城に居城し,元和7年には同城を壊して久留米城修築の材料に用いたという(筑後封植録)。文化4年には本田29町余・開田3反余・畑田3反余・畑7町余・居屋敷5反余(農政農民史料集)。肥後街道が通り,肥前国寺井まで渡舟で17町。筑後川河口港として利用され,島原の乱に際しては軍兵がここから出動した。1620〜30年代の執筆とされるポルトガル人ジョアン・ロドリゲスの「日本教会史」にも筑後川の港として榎津の名が見えている。当町には浦役・船役が課せられた(久留米小史)。宝永年間の「啓忘録抜萃」によると,榎津番所掛りの船は,20〜10反帆が12,8〜3反帆が79とあり,「石原家記」では貝取船8・渡船2をあげている。寛文3年,藩境の遠見番所番士に山口新左衛門を任じ,向島・鐘ケ江・城島の各定番を支配させている。宝永3年の町数16町36間,竈数462,人数2,141,馬25(石原家記)。榎津指物は広く知られ,天文年間の大工職,天正年間の造船業などに起源が求められており,文化年間には大工職41・木挽15,文政5年には船大工101,天保3年には桶師9を数えた(田中文書)。この間,安永3年猪口万右衛門考案の農具水車の製作が当町大工に委託され(三潴郡誌),文化9年長町出身の田ノ上嘉作が家大工のかたわら建具を製作,後年久留米の指物師に弟子入りしたといい(大川市誌),天保年間には佐賀藩領にも榎津産の戸障子類が入ったとも伝える(鍋島直正公伝・倹法強録・正司考祺)。神社は水天宮のほかに天満神社7,寺院は浄土宗正覚院・禅宗光福寺・一向宗願蓮寺・同宗覚了寺。明治6年榎津存誠小学校が開校。同8年,当町内には庄分町・浦町・城町・向町・柳町・北浜町・藪町・出来町・長町・横町・津村町・水入町の各町が見える(榎津町地押図)。同12年の戸数508・人口2,562,物産は酢・醤油・船・水車(共武政表)。同18年犬塚から郡役所を地内水入町に移す(三潴郡誌)。同22年大川町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438745
最終更新日:2009-03-01




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