ケータイ辞書JLogosロゴ 小江村(近世)


福岡県>浮羽町

 江戸期〜明治9年の村名。生葉郡のうち。はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領。三角御境の浜1反余と稲妻御境の12町余は福岡藩の飛地(廻村書留)。石井組に属す。村高は,「元禄国絵図」201石余,「在方諸覚書」の古高380石,「天保郷帳」545石余,「旧高旧領」885石余。宝暦年間頃の役高は1,068石,庄屋は下宮田村庄屋も兼任(在方諸覚書)。嘉永元年頃の作柄は「村方は田方7俵・粟作6俵」で,中津留名(戸数2)・加げ名(戸数8)・染名(戸数4)は「田方六俵・粟作五俵」(廻村書留)。文化4年の耕地は田11町余・畑田45町余・畑48町余(農政農民史料集)。水道築造計画に対し当初は水難を恐れ反対したが,完成後は大石・長野水道を水利として利用した(吉井町誌)。筑後川沿いの村で,筑前国志波町への通路として船渡し2があり,川幅60間,渡舟各1。「啓忘録抜萃」に大川筋大淵名として高山瀬・午天神瀬を記す。福岡藩飛地と接するため,同藩の古賀先刎・網渡場や積荷船などをめぐる対立があり,天明3年船渡・馬場先・上中島の3か所に番屋を設けた(公事方要領雑記)。穀留番所があり,文久3年旅人改手形所を設置。享保5年の大山汐・大洪水では「至極破損」し,「家財農具米穀某外品々流失」という大きな被害を蒙った(石原家記)。宝暦2年長崎廻送の日田公米筑後川運送を同村庄屋の祖山崎屋伝七が請け負い,以後も同家が世襲する。同4年の大一揆では小江河原が一揆勢の集結地となり,藩はここに目安箱を設けた(久留米藩百姓一揆ニ関スル調査)。嘉永年間頃には「右村方よろしからず,極々零落に見る。按ずるに右村は大郷なれども,已前は村立よろしからざる儀は聞き及ばず」と記される(廻村書留)。産土神を祀る八幡宮は醍醐天皇の時に宇佐八幡宮を勧請したと伝える。ほかに寺屋敷,ともすえの塔と称される地蔵や石塔,天神10などがある(寛延記)。船渡の首塚は,天文10年滝掻瀬付近での戦闘における戦死者の首を埋めた所という(筑後国史)。村の西側には,筑後川の氾濫によってできたという縦3町・横40間に及ぶ童子丸池がある(筑後志・寛延記)。明治9年村内のうち染名は古川村に,字欠町は西隈上村に,角間名は桜井村に,小向名・中島名・砂原名・今寺名は八和田【やわた】村に編入し,残りは千年【ちとせ】村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438774
最終更新日:2009-03-01




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