ケータイ辞書JLogosロゴ 大石村(中世)


福岡県>久留米市

 南北朝期〜戦国期に見える村名。筑後国三潴【みずま】郡三潴荘のうち。貞和3年12月25日の琳豪請文(東寺百合文書/大日料6-11)に「宝荘厳院領筑後国三潴庄内大石村所務職条々」とある。同文書によると,大石村は東寺の勧学会料に当てられた村で,所務職を請け負った琳豪は明年より毎年12月中に米15石,代銭ならば15貫を進納すると約している。同4年7月琳豪は大石村に下向し約諾した年貢1,500疋(15貫)は今年中に進納する旨8月3日重ねて東寺に報じている(同前)。同書状によると法勝寺僧方より大石村去年年貢分として千疋替りに上納しているとある。しかし,琳豪の計画通りに事は運ばなかった。同年8月27日九州探題一色範氏は肥後の南朝方を討伐のため筑後に発向し,寺社本所領に狼藉を行った。さらに探題が肥後在国中は本所領は兵糧料所とするようとの将軍からの命令であるとして三潴惣荘は筑後の大将五郎御曹司が支配し年貢を責め取ってしまった。琳豪は大石村は宝荘厳院領として東寺が管領している地で三潴総荘に籠むべからざる由を探題に日々訴え申しており,200余貫を散じて奉行人にも請託し,探題の「近御一族」にも仲介を依頼するなど種々の手段を講じた旨を報じ東寺三宝院賢俊の政治力を期待することを書き添えている。観応3年9月大石・五郎丸所務職は豊前左衛門入道の知行するところとなり,年貢の5分の1は彼の収入とされた(同前/南北朝遺3457)。年月日未詳であるが,この前後の三潴荘内所領坪付注文(詫摩文書/同前2662)に「大石村〈二十町一円,四十町所務〉堀内七郎左衛門尉殿」と見えるのは所務職と関係があるのであろう。永正5年11月3日筑後守護大友義長は三潴郡大石村10町など三潴郡・三井郡の地150町を高良山に与えた(高良山座主坊文書/大日料9‐1)。何らかの事情で大石村は高良山領でなくなったらしいが,年未詳の8月29日義長は高良山座主代新坊にあて「大石村之事還補」と再度給している(同前/県史資料7)。なお,文禄2年3月18日久留米城主小早川秀包の家老桂民部大夫に座主丹波良寛・大宮司宗崎孝直・大祝鏡山保真の名で提出した高良社神職名知行所数注文案(同前/三潴郡古文書集)に「拾五町 座主領 大石」と見えるのは大友義長が与えた10町の地を中心としているものと考えられる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438784
最終更新日:2009-03-01




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