ケータイ辞書JLogosロゴ 大窪村(近世)


福岡県>田主丸町

 江戸期〜明治9年の村名。竹野郡のうち。はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領。寛保3年岡本源左衛門が20石,古川理右衛門が50石を知行(給知高帳)。唐島組に属す。藩領内では当村を大窪村と東大窪村とに分けていた。村高は,「元禄国絵図」49石余(東大窪村は大窪村の内と記す)。「在方諸覚書」の古高は大窪村95石・東大窪村85石,「天保郷帳」85石余,「旧高旧領」256石余。宝暦年間頃の役高は大窪村172石・東大窪村120石,それぞれ久留米より3里24町・3里25町,庄屋各1(在方諸覚書)。寛政元年撫8斗1升,免率大窪村4ツ6歩7厘・東大窪村3ツ9歩6厘,人数143,馬9(筑後上三郡取調手鑑)。嘉永元年頃の作柄は「大凡田方7俵,粟6俵半」(廻村書留)。文化4年の耕地は田なし,大窪村の畑田7町余・畑4町余,東大窪村の畑田3町余・畑6町余(農政農民史料集)。水利は大石・長野水道。筑後川沿いの村で,「啓忘録抜萃」に「(古図では)大窪村川中に筑後領の渕あり,今これ無し」と記す。宝暦4年の大一揆では,1名が2里四方村払の処罰をうけた。大窪村に氏神を祀る天神と稲荷大明神,東大窪村に氏神を祀る印鑰がある(寛延記)。明治9年八幡村の一部となる。現在の田主丸町八幡の一部にあたる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438825
最終更新日:2009-03-01




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