ケータイ辞書JLogosロゴ 大隈村(中世)


福岡県>粕屋町

 南北朝期〜戦国期に見える村名。筑前国粕屋郡のうち。康永4年の源某寄進状に「糟屋郡大隈村田地四拾伍町地頭職」と見え,「一色少輔太郎入道々猷(範氏)建武三年十二月七日寄進状」に任せて天満宮御霊社に寄進するとあるが(御供屋文書/南北朝遺2115),この文書には疑問がある。室町期の応永27年6月18日に「大隈原合戦」のあったことが知られる(河津伝記/宗像郡誌下巻)。ここに「大隈原」と見えるのが,大隈村の存在を否定するものなのか,単に大隈村周辺の原野の意味であるのかは未詳。下って戦国期には粕屋郡和田・乙犬とともに筥崎宮の本家石清水八幡宮別当田中家の直務地であった。天文年間には石清水八幡宮供僧蓮城坊慶隼が,ついで大内氏守護代杉氏が代官となっている。天文20年大内氏が滅び陶氏がそれに替わると,筥崎宮瑞籬の造営に下向した五智院尊清が和田・乙犬・大隈の3か所を公領に差し出し,その替り公領の沙汰として造営を遂げようと策したため,本家田中坊との間に相論が起きている(石清水文書2/大日古)。その後,天正15年には大隈村20町が太宰府天満宮一坊領として書き上げられている(大鳥居文書/嘉穂地方史古代中世編)。天正年間の「指出前之帳」では田78町余・分米814石余,畠21町余・分大豆98石余とある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438826
最終更新日:2009-03-01




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