ケータイ辞書JLogosロゴ 大隈町(近世)


福岡県>嘉穂町

 江戸期〜明治22年の町名。筑前国嘉麻郡のうち。福岡藩領。「元禄郷帳」「天保郷帳」では大隈村枝郷と注記されるが,すでに天正年間の「指出前之帳」に大隈村とは別に「大隈町分」として畠8反余・分大豆12石余と見え,「慶長国絵図」をはじめとする国絵図・郷帳類にも大隈村とは別に当町の名があり,近世初頭から町場として大隈村から分離していたことが知れる。黒田長政入国後,益富山上の城跡に大隈城を築き,後藤又兵衛基次に治めさせるが,基次脱藩後の慶長11年,母里太兵衛友信が鞍手郡鷹取城から移る。元和元年の一国一城令で大隈城は廃止され,友信は同年この地に没し,下益村麟翁寺に葬られる。高は,「慶長国絵図」101石余,「正保郷帳」112石余(田70石余・畠41石余),「元禄国絵図」114石余,「天保郷帳」162石余,「旧高旧領」160石余。産土神は,「続風土記」では祇園社と見えるが,「続風土記付録」では北斗社になる。浄土真宗光円寺は母里太兵衛の家人善徳が開いた(続風土記付録)。町内に三日町・五日町・九日町の名があるのは,毎月3・5・9の日に市が立ったことに由来する。豊前から秋月へ,飯塚から日田への街道が交わる要地で,佐賀藩主の初入国には,必ずこの道を通るのを吉例とした(続風土記拾遺)。「続風土記」に,コンニャクは「嘉麻郡大隈町に製するも亦味よし」と記す。明治初期の人家は三日町・五日町・新町・祇園町・九日町・東町にあり,戸数241・人口1,133(男568・女565),田6町余・畑6町余,物産は生蝋・蝋燭・晒葛,牛11・馬4,小船7艘,通運会社・郵便取扱所があり,九日町にある小学校の生徒数は男41・女15(地理全誌)。明治7年中益村明善寺を学舎にして開設された益富小学が翌年当町上町字ソノ田に移転して大隈小学と改称する(嘉穂郡誌)。明治6年の筑前竹槍一揆では,一揆勢は猪膝(現田川市)に続いて大隈町を襲い,その後筑前全体の大騒動になる。同9年,現上嘉穂警察署の前身の警察分屯所が置かれるが,同年の秋月の乱で襲われて殉職者を出した。明治8年下益村を合併。同22年大隈村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438838
最終更新日:2009-03-01




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