ケータイ辞書JLogosロゴ 大野荘(中世)


福岡県>築城町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。築城郡のうち。文治4年2月宇佐宮縫殿海四子は「築城郡大野庄恒富名田」に対する惣検校恒包の濫妨停止を請い,大宮司公通の外題安堵を得ている。次いで建保4年2月,宇佐宮御馬所検校宇佐景輔が「築城郡大野郷内力□(丸カ)并小糸永名田畠等」に対する光輔の濫妨を訴え,父祖の譲状に任せて安堵されんことを請い,大宮司公仲の外題安堵を得た。寛喜元年12月には宇佐宮本家近衛家が御馬所検校嗣輔の相伝所領を安堵,その中に「大野庄成吉名田」がある(益永文書/大分県史料29)。荘内が名編成されていたことを知るが,年未詳の宇佐宮神領次第案によると「大野庄四十七名」とある(致津文書/同前30)。その後,元弘3年12月宇佐大宮司公連が宇佐大楽寺へ所領田畠を寄進しているが,そこに「一所同国築城郡大野安末名伍町肆段」とあり,翌建武元年には左弁官下文をもって大楽寺領として安堵されている(大楽寺文書/大友史料5)。室町期の応永30年4月日付宇佐宮神事諸役注文によれば,当荘は六月祓に石垣・新開・田染・角田【すだ】各荘とともに夫5人・騎兵5人を負担している(矢野文書/大分県史料2)。下って,戦国期の年未詳12月18日付宮成公高・益永道永連署愁状案では,弥勒寺所司原井田東西両別当が殺害されたことについて田原氏(親宏か)に訴えているが,そこに引いた過去の例として,「豊前国大野庄喧」で大貞社神輿が動座した際,大内義弘は与力人の給所を改易したという(到津文書/同前1)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438895
最終更新日:2009-03-01




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